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30年日本史00747【鎌倉末期】笠置山の戦い
後醍醐天皇に謁見した楠木正成は、そのまま笠置山の軍勢に加わるのかと思いきや、なんと地元の金剛山へと戻ってしまいました。より堅固な城に立て籠もって戦うことで、幕府方の兵を分散させようというのです。
元弘元/元徳3(1331)年9月1日。笠置寺に向け、六波羅勢が京を出発しました。数に勝る幕府軍は、9月2日をもって大軍で笠置山を攻め落とそうと打ち合わせていました。
ところが、幕府軍の中に抜け駆けしようとする者が現れました。高橋範時(たかはしのりとき:?~1333)は手柄欲しさに、たった300騎で笠置山への攻撃を始めます。
対する笠置山の勢力は3000騎。圧倒的に数が足りません。高橋範時はあっけなく敗北し、戦場には
「木津川の 瀬々の岩浪 早ければ かけてほどなく 落つる高橋」
(木津川の流れは速いので、かけてすぐに高橋が落ちてしまった)
と幕府方を揶揄する高札が立てられました。
続いて、小早川という男が同じく抜け駆けを試みますが、同様に敗北してしまいます。戦場には
「かけもえぬ 高橋落ちて 行く水に 憂き名を流す 小早川かな」
(高橋が落ちた後、水の流れに情けない名前を流してしまった小早川よ)
と書かれた高札が掲げられてしまいました。
ちなみにこの「小早川」とは、沼田(群馬県沼田市)を領地とする御家人・小早川朝平(こばやかわともひら:?~1348)のことではないかと考えられますが、太平記には下の名前が記載されておらず、詳細は不明です。
後醍醐天皇方は勢い付きます。続いて、天皇方の足助重範(あすけしげのり:1292~1332)が放った矢が、幕府方の荒尾九郎(あらおくろう:?~1331)の鎧を射抜き、即死させました。足助重範は足助荘(愛知県豊田市)を本拠地とする武将です。
ここに現れたのが、九郎の弟・荒尾弥五郎(あらおやごろう:?~1331)です。弥五郎は豪気にも、周囲の者たちに兄が死んだことを悟られないよう平静を装い、
「大した威力ではないではないな。この鎧を射てみよ」
と足助重範の前に進み出たのです。
足助重範は、
「あんなに自信満々に立ちふさがるとは、恐らく鎧の下にくさりかたびらを着込んでおり、当たっても死なないよう備えられているのだろう」
と考え、あえて鎧ではなく兜を狙い撃ちにしました。
果たして、足助重範の矢は弥五郎の兜を射抜き、弥五郎もまた倒れました。笠置山の戦いは、天皇方に有利に進んでいるようです。