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30年日本史01069【南北朝中期】小島のくちすさみ

二条良基にとって「京から美濃への旅行が大冒険だった」というのは、いかにもお公家さんだなあという印象ですね。そんなに遠くもないのに。

 京が南朝の占領下に置かれていた間、北朝方で関白を務めていた二条良基はもちろん謹慎処分を受けました。嵯峨中院の山荘で謹慎していたものの、南朝軍が京を放棄して監視の目が緩くなったことを受けて、京を抜け出して後光厳天皇のいる美濃小島へと向かいました。正平8/文和2(1353)年7月20日のことです。
 関白・二条良基にとって京から美濃への旅はまさに大冒険だったらしく、この旅を「小島のくちすさみ」という紀行文にしたためています。
 一方、同じく謹慎していた北朝の公家・洞院公賢は、7月21日になぜか太政大臣に就任しています。南朝方からあらかじめ打診された人事を受け入れ、それが南朝軍が京を離れた今になって発令されたようです。
 つまり「洞院公賢は北朝の公家でありながら南朝に寝返った」と評価できそうですが、本人は日記の中で
「拒絶すれば何をされるか分からないため、受け入れざるを得なかった」
と弁解しています。
 さて、7月27日に小島に到着した二条良基は、後光厳天皇の帰京実現のため幕府との交渉に注力します。今や南朝軍は京を離れて賀名生に逃亡しているわけですから、すぐにでも帰京できそうですが、さすがにこれ以上天皇を危険な目に遭わせるわけにいきません。ここは幕府が完璧に京をクリアランスして、100パーセント安全な状態での帰京を目指したいものです。
 そこで二条良基は、鎌倉にいた尊氏に早く帰京するよう促します。戦上手とはいえない義詮が単独で守っている京は危険ですし、武家のカリスマたる尊氏が帰京してくれれば安心です。
 連絡を受け取った尊氏は、1年余り滞在していた鎌倉を離れることを決めました。しかし、時折しも上野国で新田義興が決起するという捨て置けない情報が聞こえてきました。
 そこで尊氏は、鎌倉公方・基氏と関東執事・畠山国清の2人を入間河へと出陣させることとしました。新田軍との戦いに備えて前線基地を作ったということでしょう。この「入間河の陣」は現在の埼玉県狭山市徳林寺周辺と考えられます。
 7月28日。基氏は父・尊氏に命じられるがまま、鎌倉を出発して入間川へ向かいます。これが尊氏と基氏の最後の別れとなりました。基氏はその後、正平17/康安2(1362)年までここに留まり、古文書では「入間河殿」と呼ばれています。
 翌7月29日。尊氏は鎌倉を出発して京へと向かいました。その後、関東はずっと基氏に委ねられることとなります。

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