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30年日本史01124【南北朝後期】神崎川の戦い 吉田厳覚の蛮勇
書いていて溜め息が出るのですが、それにしても道誉はひどい奴ですねえ。周りを蹴落とすことばかり考えています。
細川清氏が京から出奔したのと同じ頃、似たような幕府重臣同士の争いが同時発生していました。その一つが、01119回で簡単に紹介した摂津守護をめぐる争いです。
かつて摂津守護には赤松範資が就任していましたが、範資の死後、その嫡男の赤松光範が相続していました。ところが昨年の義詮による南朝討伐の際、
「光範による軍費調達が不十分だ」
との陰口が幕府内でささやかれました。これを聞いて「良い機会だ」と思ったのが佐々木道誉です。佐々木道誉は将軍義詮に
「光範の摂津守護職を解任すべきです」
と進言して、この職を自らの恩賞としてもらってしまいました。
光範はこの戦いで軍備調達を担当したのみならず合戦でも活躍していたので、きっと多くの恩賞をもらえるだろうと期待していたところに、恩賞どころか領地まで取り上げられてしまったわけです。光範はこの不当な扱いを不服として訴訟を起こしました。
細川清氏の出奔に、赤松光範の訴訟提起。これらの幕府内の混乱を知って、南朝方の楠木正儀と和田正武は「今こそ攻め時だ」と考えました。正平16/延文6(1361)年9月28日、楠木・和田は500騎を率いて渡部橋を渡り、天神の森(大阪市西成区)に陣を布きました。渡部橋というのは大阪市堂島川にかかる橋で、鎌倉末期に楠木正成が隅田・高橋軍と戦ったり(00763回参照)、南北朝初期に楠木正行が山名時氏と戦ったり(00974回参照)した場所です。
これを迎え討とうとしたのが、佐々木道誉の孫に当たる佐々木秀詮・氏詮兄弟です。佐々木兄弟は千騎でやってきて、神崎橋を隔てて敵を防ごうとしました。つまり南朝方に神崎川を渡らせまいという趣旨です。神崎川というのは、現在の大阪市淀川区と兵庫県尼崎市を隔てる橋のことです。
しかし、佐々木兄弟の案に対して摂津守護代・吉田厳覚(よしだげんかく)は
「どうして神崎川のこちら側で防備をするのです。先日、『赤松が摂津守護でありながら南朝方に領地を侵奪されているのはけしからん』ということで、佐々木家に守護職が回ってきたわけですのに、摂津国内に入ってきた敵を生きて返すというのは、幕府への聞こえがよくありません。私が命を懸けて、敵を摂津から生きて返さないようにしてみせます」
と主張しました。
これには少々解説が必要でしょう。現在の大阪府は古代区分においては3ヶ国に該当します。すなわち、北部は摂津国、南東部は河内国、南西部は和泉国です。河内を治める楠木・和田たちが摂津国内に入った以上、そこから生きて返すなと吉田厳覚は主張しているのです。防衛線は摂津・河内国境に設定すべきであり、それより後方にある神崎川に設定するのはあまりに消極的な態度だというわけですね。