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30年日本史00550【鎌倉初期】奥州合戦 河田次郎の最期

 主君・泰衡を裏切ってその首を取った河田次郎に対して、頼朝は
「泰衡は既にわが掌中に収まっていたはずだった。お前ごときの手を借りる必要はなかったのだ。お前は主の恩に背いて裏切るとは許し難い」
と述べ、斬首に処しました。河田次郎も、義経の首を差し出した泰衡がなぜ頼朝に許されなかったのかをもう少し考えていれば、こんな馬鹿なことはしなかっただろうと思うのですが。
 こうして、奥州の覇者と呼ばれた奥州藤原氏は、4代泰衡の代にして呆気ない幕切れを迎えました。
 泰衡や河田次郎が何とかして死罪を免れようとあがいた挙句に死んでいったのに対して、逆に頼朝に喧嘩を売って死を免れた者がいました。由利維衡です。
 9月7日、由利維衡は頼朝の尋問を受けました。
 頼朝が
「泰衡は17万騎の貫主でありながら20日間で滅亡した情けないやつだ」
と述べたのに対し、由利維衡は
「あなたのお父上(義朝)は15ヶ国を領有しながら長田により簡単に滅ぼされたではないか。それに比べ泰衡は2ヶ国の貫主でありながら20日間も持ちこたえた。情けないとは言えますまい」
と述べ、頼朝を唸らせました。これにより頼朝は、由利維衡を御家人として召し抱えることに決定しました。頼朝に対しては、卑屈な態度で下手に出るよりも、武士の矜持を示した方が上手くいくようですね。
 文治5(1189)年9月18日。秀衡の四男・高衡が降伏し捕虜となりました。高衡は秀衡の6人の息子の中で唯一生き残ったことになります。その後、頼朝は奥州の支配体制を固めるため、葛西清重(かさいきよしげ:1161~?)を奥州総奉行に任命するなど種々の手続を終え、9月28日に平泉を後にしました。
 葛西清重は葛西城(東京都葛飾区)を拠点とする豪族で、阿津賀志山の戦いで大活躍したことで抜擢されたものと考えられます。その後、清重はしばらく奥州に留まりますが、頼朝は清重の老母の容態を手紙で知らせてやるほど、清重のことを気にかけています。
 記録上、頼朝が奥州総奉行に命じたこととしては、
・泰衡の残党の掃討
・窮民の救済
などがありますから、奥州総奉行の役割は、守護を置いていない陸奥国における守護に該当するものと思われます。

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