30年日本史00847【建武期】甕の原の戦いと鎌倉占領
新田軍が足利軍に敗れ、建武2(1335)年12月8日に足利軍が鎌倉を出発して京へ進撃したとの知らせが入ったため、顕家は尊氏を追いかけようと、12月22日、義良親王とともに多賀国府を出発しました。
一方、顕家と同じく奥州にいた斯波家長は、尊氏を助けるべく顕家を追って斯波館を出て南下します。顕家は前方にいる敵だけでなく、後方から追跡してくる敵をも意識しなければならなくなりました。
顕家はまだ奥州をすっかり統一できたわけではなく、周囲は敵ばかりです。最初に立ちはだかった敵が、常陸の豪族・佐竹貞義(さたけさだよし:1287~1352)でした。
前方の佐竹貞義と後方の斯波家長。両方と同時に戦うことはできません。顕家は家臣の結城親朝(ゆうきちかとも:?~1347)に義良親王からの令旨を与え、斯波家長との戦いに当たらせることとしました。後顧の憂いを取り除いた上で佐竹との戦いに当たるというわけです。ちなみに結城親朝は「三木一草」の一人である結城親光の兄です。
北畠軍と佐竹軍が激突したのは常陸国の甕の原(みかのはら:茨城県日立市)でした。戦いは佐竹軍の優勢で進み、北畠軍は先鋒・相馬胤平(そうまたねひら:?~1336)や岩城忠隆(いわきただたか:?~1336)らが戦死するほどの大損害を受けました。
ところが途中で戦況が逆転します。那珂城(茨城県城里町)の城主・那珂通辰(なかみちたつ:?~1337)が顕家の味方となり、2千人の兵を率いて佐竹勢の背後から斬り込んだため、佐竹軍は金砂城(かなさじょう:茨城県常陸太田市)まで撤退を余儀なくされました。
北畠顕家の目的は尊氏軍の攻撃から後醍醐天皇を守ることですから、いつまでも佐竹軍にこだわっている訳にいきません。顕家は金砂城に立て籠もる佐竹軍を無視して先を急ぎます。
建武3(1336)年1月2日。顕家は尊氏・直義が不在となった鎌倉を攻撃しました。鎌倉を守っていたのは尊氏の嫡男たる足利千寿王と、直義側近の桃井直常(もものいただつね:?~1376)です。
足利勢は戦わずして逃亡したため、鎌倉はやすやすと顕家の占領下に置かれました。翌日には佐竹貞義が顕家を追撃すべく迫ってきたものの、顕家はこれを相手にすることなく鎌倉を出発して西へ向かいます。
鎌倉という場所は、本来「防御に適しているから」という理由で頼朝が選んだ場所のはずです。しかし、新田義貞による攻略以来、鎌倉は守りづらい場所と認識されているらしく、鎌倉防衛を諦めて逃亡する武将が多いようです。