30年日本史00815【建武期】恩賞の波紋
元弘3(1333)年8月5日に発表された除目(人事異動)を見ていきましょう。
足利高氏は従三位の武蔵守で、武蔵国・常陸国・下総国の3国を与えられました。そのほかは、
・高氏の弟・足利直義(あしかがただよし:1307~1352)には遠江国
・新田義貞には上野国・播磨国
・義貞の弟・脇屋義助には駿河国
・楠木正成には摂津国・河内国
・名和長年には因幡国・伯耆国
・千種忠顕には佐渡国など3ヶ国
・赤松円心には佐用荘
が、それぞれ与えられました。さらに新田義貞は新たに設置された武者所の所司を命じられました。
この恩賞が大きな波紋を呼ぶこととなります。
第一に「赤松円心に佐用庄を与える」というのは、何らの恩賞になっていません。佐用庄とは兵庫県佐用町を指し、円心の元々の領地です。つまり既存の領地を安堵したに過ぎず、何ら新しい領地を授けなかったわけで、この結果に円心は憤りました。
第二に、高氏に何らの中央政府の役職を与えなかったことが挙げられます。高氏は武蔵守という役職を得たものの、実際に武蔵国まで出かけて行って政務を担当するわけではありません。当然、中央政府での何らかの役職をもらって兼務するのだろうと思っていたら、何らの役職ももらえず肩透かしを食ったのです。世の人々はこの状況を「高氏なし」と言って噂しました。
第三に、大した戦功を挙げていない千種忠顕が莫大な恩賞を得たことです。忠顕は家臣らとともに日夜酒宴に明け暮れたといいます。宴に集う者は300人を数え、酒肴の費用は莫大な額に上りました。数百騎を従えて犬追物や鷹狩に出かけ、豹や虎の皮、豪華な刺繍や絞り染めの直垂を着用していたといいます。
第四に、何らの功をなしていない文観を硫黄島(鹿児島県三島村)から呼び戻し、東寺の大僧正に任じたことです。文観といえば「太平記」では邪教の僧と扱われている人物ですが(00742回参照)、さすがにそれは後世の創作でしょう。しかし身分の低い文観が京を代表する寺院たる東寺のトップに据えられたことは多くの僧侶にとって不満だったらしく、高野山の宗徒たちは天皇に
「文観は狐の精を祀り、怪しげな呪術をしている破戒僧である」
と苦情を申し立てています。