30年日本史00528【鎌倉初期】堀川夜討ち*
文治元(1185)年8月16日。除目(人事異動)があり、義経は伊予守を兼任させられました。またもや頼朝の許可なき任官です。頼朝は再び激怒し、義経に対して一種の踏み絵を用意しました。かつて木曽義仲に従っていた源行家の討伐を義経に命じ、命令を履行するかどうかを試そうとしたのです。
9月、梶原景季が義経を訪れ、頼朝の命令を伝えました。しかし義経は病を理由にこれを断ります。
義経が拒絶した理由が仮病なのは明らかでした。頼朝はいよいよ義経を討伐することを決め、討伐軍を募りますが、御家人たちは天才軍略家の義経を恐れてなかなか手を挙げません。やっと手を挙げたのが、土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん:1141~1185)でした。土佐坊昌俊は、83騎の兵を率いて10月9日に鎌倉を出発します。
京に到着した土佐坊昌俊は、10月17日夜、堀川の義経の館を襲撃します。このとき義経の郎党たちの多くは留守にしており、喜三太という最も身分の低い家来が一人で襲撃隊から義経を守り、そのうちに帰ってきた他の家来とともに昌俊らを撃退しました。この事件を「堀川夜討ち」といいます。
敗れた昌俊は鞍馬山に逃げ込みますが、義経の郎党らに捕らえられ、10月26日に家来とともに六条河原で斬首されました。
この土佐坊昌俊は、義経を主人公とする作品では悪辣な暗殺者として登場するのですが、吾妻鏡を見ますと、鎌倉出発に際して老母と幼い子の将来を頼朝に頼む場面や、昌俊処刑を知った老母が泣き崩れる場面などがあり、悲劇的な人物として描かれています。恐らく頼朝としても、あの義経を簡単に暗殺できるとは思っておらず、決定的な敵対を招くことが目的だったのでしょう。してみると、当初から土佐坊昌俊の役割は戦死することにあったのかもしれず、痛ましい最期といえるかもしれません。
なお、「平治物語」に金王丸(こんのうまる)という人物が登場します。源義朝の死を、愛妾である常盤御前に伝えた義朝の郎党です。この金王丸は武蔵の豪族・渋谷氏の出身で、本名を渋谷常光(しぶやつねみつ)というのですが、これが土佐坊昌俊と同一人物であるとする説があります。その伝説では、昌俊=金王丸は、常盤御前とともにいた産まれたばかりの義経をよく覚えていて、憐れんで討つことができなかったというのです。
現在、渋谷駅の近くの渋谷城跡には「金王八幡宮」が建てられており、その片隅には金王丸を祀る金王丸影堂があります。もしかすると、土佐坊昌俊が生まれ育った場所なのかもしれません。