30年日本史01117【南北朝後期】倉懸城の戦い 陥落
山名家は、執事・小林繁長(こばやししげなが)に2千騎の兵を与えて、星祭山(ほしまつりやま:岡山県美作市)に登らせました。この星祭山からは倉懸城を見下ろすことができ、いつでも奇襲をかけられます。
一方、赤松勢は高倉山(岡山県赤磐市)の麓に陣を布き、山名勢に後方から奇襲をかけられるよう準備しました。その数2千騎です。赤松勢の布陣を知った山名勢は、大将師義自身が優れた兵800騎を連れてこれを迎え討とうと待ち構えました。
赤松貞範は、山名師義軍を見て
「何だ。小勢ではないか。まずはここから打ち破ろう」
と言って戦おうとしますが、そこに急な知らせが入ります。幕府方についていたはずの安保直実が、山名方に寝返ったというのです。
安保直実といえば、第三次京都合戦において秋山光政と一騎討ちを行ったことで有名な武将です(01010回参照)。元は高師直の家臣でしたが、「直実(ただざね)」という名前からして、どこかの段階で足利直義方に寝返ったのではないかと考えられます。その安保直実が、今回は北朝方の赤松を裏切って南朝方の山名についたというのです。
思わぬ裏切りに遭った赤松貞範は、
「先に安保を叩かねばならぬ」
と言って、法華山(兵庫県加西市)に兵を差し向けました。これにより、山名と戦うための兵が足りなくなってしまいます。
そこで赤松勢は、四国にいた細川頼之に応援を要請しました。頼之は幕府から中国攻めの大将に任命され、讃岐において備前攻めの指揮を執り、正平16/延文6(1361)年9月10日に備前に攻め込んだところでした。ところが要請を受けた頼之は驚いて、
「我々は備前攻めの応援を要請しているところなのに、全く応援が来ないではないか」
と答えます。自らの陣地に精一杯で、とても赤松を支援するどころではないというのです。
結局、倉懸城の佐用貞久・有元佐久を助ける方法はありませんでした。倉懸城では山名勢と何度か戦ううちに食糧も矢も尽きたので、11月4日、城兵たちは遂に城から逃げ出しました。最後の城が陥落し、美作国は残らず南朝方の山名家のものとなりました。
こうして山名家は、山陰の4ヶ国(因幡・伯耆・出雲・美作)を併合しその勢いを増しました。諸国でも山名に呼応する声が次々と上がり、幕府の権勢はみるみる縮小していきました。