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30年日本史01070【南北朝中期】北畠親房死す

南朝の主役、北畠親房がここで遂に退場です。尊氏も親房もずいぶん長生きですね。

 鎌倉を離れた尊氏が美濃に到着し、小島において後光厳天皇に対面できたのは、正平8/文和2(1353)年9月3日のことでした。その場面を二条良基は詳しく書き残しています。
 その記録によると、尊氏は天皇に、
「主上が京を追われてからは、私もまた寝殿で寝ることなく、歌舞音曲を停止して謹慎しておりました」
と挨拶したというのです。尊氏は北朝の天皇に敬意を払うどころか、勝手に南朝に降伏した前科があるので、ここまで卑屈に振る舞うことにはどうも違和感があります。これは史実なのか、二条良基の理想とする状況を書いただけなのか、判別しがたいところです。
 尊氏が率いてきた大軍のおかげで、9月21日、後光厳天皇ら一行は安全に京へと戻ることができました。
 さて、南朝軍が京都を占領していた時期に、賀名生ではとんでもないスキャンダルが起こっていました。南朝の重臣である北畠具忠が、後村上天皇の女御と密通の上、連れ去ってしまったのです。つまり駆け落ちです。
 この女御が北畠親房の娘であったため、親房は激怒して駆け落ちを援助した土民数名を処刑し、さらし首としました。いかにも保守的な親房らしい行動ですが、この過剰なまでの刑罰は地元民を刺激しました。土民が怒って蜂起し、後村上天皇は賀名生からの一時的な避難を余儀なくされたのです。
 この駆け落ち事件は洞院公賢の日記「園太暦」に載っている話ですが、公賢自身が
「真偽のほどは定かではない」
と述べており、事実かどうかは怪しいものです。そもそも前年5月の八幡の戦いで戦死しているはずの北畠具忠が登場している時点で矛盾しています。
 その北畠親房は、正平9/文和3(1354)4月17日に賀名生において死去しました。61歳でした。
 北畠親房といえば、「神皇正統記」を著してその理論的支柱を作った南朝の立役者です。公家でありながら自ら常陸戦線に赴き、そこで味方を増やすべく多数の書状を送って多数派工作を試みた行動派の人物でもあります。しかし、その説得は武士の実情を理解しない非現実的なもので、そのあまりの頑迷さはかえって味方を減らす結果につながりました。
 親房の立場は「北朝との和睦をあくまでも拒否する強硬派」と位置付けられていますが、一方で、直義の南朝降伏を受け入れることを決定付けたのも親房であり、北朝との戦いを有利に進めたのは親房の功績であると評価することもできるでしょう。

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