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30年日本史00678【鎌倉中期】二度目の使者

 文永5(1268)年2月6日、この国書の写しが朝廷に届けられ、後嵯峨上皇のもとで院評定が開かれました。関白・近衛基平(このえもとひら:1246~1268)の意見も幕府と同様、
「返書すべきでない」
というものでした。朝廷と幕府の意見は一致し、フビライの国書は黙殺されることとなりました。
 しかし幕府もこのままでは元の来襲を招くおそれがあると自覚していたのでしょう。2月27日には、幕府から西国御家人たちに戦闘に備えるよう指示がなされています。
 さらに幕府はこの外交危機に際して、中継ぎの政村執権ではなく嫡流の時宗をトップに据えた本格的な政権で対応しようと考えたようです。3月5日、執権政村と連署時宗は役職を入れ替えて、時宗が8代執権に就任し、政村は連署として時宗を支えることとなりました。
 このことから、黙殺を決定したのは政村より時宗の主導によるところが大きいと考えられます。時宗はそれだけ重大な決意をもってこの外交危機に臨んだのでしょう。
 さて、大宰府で長期間返書を待っていた潘阜は、夜な夜な地理を調べて戦闘に必要な情報を書き留め、7月に高麗に帰国したといいます。帰国した潘阜は
「私は日本国の王都には入れてもらえず、大宰府に留め置かれ、その間の待遇はひどく悪いものでした。何度も返書を出すよう求めましたが、結局もらえませんでした」
と報告しました。
 状況を聞いたフビライは満足せず、再び黒的を高麗に派遣しました。今度は黒的自身が潘阜らとともに日本に向かい、対馬に立ち寄りますが、対馬の領主・宗助国(そうすけくに:?~1274)は彼らが九州に渡ることを拒みます。一行はやむなく、対馬島民の塔二郎(とうじろう)・弥二郎(やじろう)の2人を拉致して帰っていきました。
 塔二郎と弥二郎は、元の首都・上都へと連れていかれ、手厚い歓迎を受けました。フビライの意図は、この2人に宮殿を見物させ、日本帰国後に元がどれだけ強大な国かを証言させることにありました。2人が驚いて
「極楽とはまさにこのことだ」
と述べたところ、フビライはひどく喜んだといいます。
 文永6(1269)年9月17日。高麗の使者・金有成(キム・ユソン)と塔二郎・弥二郎を乗せた高麗の船が、再び対馬にやって来ました。今回は対馬を経由して大宰府にまでやって来て、再び使節の相互派遣と交流を要求してきました。2度目の要求です。
 朝廷も幕府も、2年連続の要求を受けてどうやらフビライは本気だと理解してきたようです。幕府が引き続き黙殺を決め込んだのに対し、朝廷は「さすがに返書を出した方がよいのでは」と態度を軟化させていきます。

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