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30年日本史01067【南北朝中期】第五次京都合戦 天皇都落ち

下調べやらチャプター構成やら大変なことはいろいろありますが、一番難しいのはモチベーションを保つことですね。

 京での戦いに敗北した幕府軍一同は、後光厳天皇のいる東坂本へと逃げてきました。
 一同は、とりあえずここ東坂本にしばらく滞在しようと考えますが、ここで
「吉野と延暦寺が連絡を取り合っているらしい」(つまり延暦寺は南朝方らしい)
との情報が入り、延暦寺と目と鼻の先である東坂本に滞在するのは危険だという話になりました。
 幕府軍はやむなく美濃を目指して東へと向かいました。
 この一行に襲い掛かってきたのが、堀口貞満の子・貞祐(さだすけ)の軍です。堀口貞満といえば新田家家臣で、かつて後醍醐天皇が新田義貞の了解もとらず単独で尊氏と和睦しようとした際、後醍醐天皇に向かって大演説をぶって抗議した人物です(00888回参照)。
 堀口貞祐はここ4、5年ほど堅田に潜伏していましたが、幕府軍が落ち延びていくのを見て好機だと考え、周辺の野武士を集めて逃亡中の幕府軍を襲撃しました。
 貞祐もさすがに後光厳天皇自身を傷付けるつもりはなく、その後ろを進んでいた佐々木道誉の長男・秀綱ら300騎に対して矢を放ちました。秀綱やその郎党たちは揃って討ち死にしてしまいます。
 その日の夜、天皇一行は塩津(滋賀県長浜市)に輿をおろして休憩しようとしますが、周囲の農民たちがそこかしこで鐘を鳴らし、鬨の声を上げてきました。これは天皇一行を襲撃しようとしたのではなく、
「幕府軍の軍勢がここに留まったら、ここが戦場になってしまう。早くどこかに行ってくれ」
という意味合いだったようです。それにしても、天皇がかくも農民に邪魔者扱いされるとは実に哀れです。
 ここに滞在するのは無理だと悟った一行は再び出発しますが、行軍を進めるうちに次々と兵が逃亡し、やがて輿を担ぐ者すらいなくなってしまいました。やむなく細川清氏が馬から飛び降り、後光厳天皇を自ら背負って塩津山(滋賀県長浜市)を越えました。太平記はこの清氏の忠義を強く称えています。
 正平8/文和2(1353)年6月13日。後光厳天皇一行はようやく垂井(岐阜県垂井町)に到着し、地元の民家に宿を取りました。宿をとれたということは、それだけ人数も少なかったのでしょう。
 さらに一行は、しばらくしてその北の小島(おじま:岐阜県揖斐川町)へと逃れ、土岐頼康が建立した瑞巌寺に宿を取りました。このとき後光厳天皇が住んだ建物は「小島頓宮」と呼ばれています。

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