
30年日本史01022【南北朝前期】高師直の最期
師直の最期といえば、大河ドラマ『太平記』の柄本明演じる師直の最期が思い浮かびます。これまでさんざん悪事を働いてきた師直が、改心して尊氏のために生き延びようと思い立った直後に殺されるという救いのないストーリーでした。
さて、打出浜の戦いが終わった後、正平6/観応2/貞和7(1351)年2月20日に尊氏と直義は和睦するのですが、太平記はこの和睦条件について詳しく書いていません。
歴史家は、和睦の条件は師直・師泰の出家だったとみています。つまり師直・師泰は政界から引退する代わりに命を保証されたということになります。よく分かっていませんが、尊氏から直義に、2人の助命嘆願が行われたのかもしれません。
2月26日。尊氏一行は京に向けて出発しました。敗北者の護送のような状況だったと思われます。既に僧形となった師直・師泰兄弟は、尊氏の3里ほど後方をついていきました。
春雨が降る中、通り道の両側には数万の敵が警備しています。師直・師泰は身分を知られまいとして、蓮の葉笠を傾けながら袖で顔を隠すのですが、それがかえって目立ってしまったようです。
師直・師泰は「将軍からあまり離れてしまっては、どんな扱いを受けるか分からない」と思い、できるだけ遅れないように馬を早めていたのですが、そこに立ちはだかったのが上杉・畠山の兵たちでした。70騎の兵たちが挨拶もなしに馬を中へ割って入れたため、武庫川(兵庫県伊丹市)に差し掛かった頃には、尊氏と師直・師泰との間はだいぶ離れてしまっていました。師直・師泰の黒い衣は、馬に水たまりの水を掛けられて泥にまみれ、惨めな状態でした。
武庫川を渡り切って小さな堤の上を通りかかったところで、三浦八郎左衛門(みうらはちろうざえもん)の家来2人が走り寄ってきて、
「僧たちの中で、顔を隠しているのは何者だ。その笠を取れ」
と言って、師直のかぶっていた葉笠を剥ぎ取って捨ててしまいます。
顔が見えたところで三浦八郎左衛門は、
「おお、やはり師直だ」
と喜んで、右の肩先から左の小脇まで斬り付けました。師直は倒れたところをたちまち首を取られ、絶命しました。
続いて師泰も、梶原孫六も、河津氏明も、次々と斬られていきました。これは上杉能憲の指示によるものでした。能憲にとって師直は養父・重能を討った仇ですから、師直らに対する恨みは相当なものだったでしょう。
この師直殺害が直義の指示によるものかどうかは分かりません。上杉能憲の独断専行だった可能性もあります。