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30年日本史00957【南北朝初期】関城書 70通もの書状*

このあたりから徐々に親房のヤバさが明らかになってきます笑。戦前期はもてはやされていた北畠親房ですが、どうも戦下手、外交下手な人物のようですね。

 興国2/暦応4(1341)年12月。高師冬は関城を攻略すべく、鉱山採掘者を駆り出し、関城への地下坑道を掘り進めました。ところが、これを察知した関城側も反対側から坑道を掘り始めていき、これが祟って落盤事故が起こり、多数の死者が出たといいます。
 この話はいかにも出来過ぎていて後世の創作のような気もするのですが、実際に関城跡にはその地下坑道の後が残っており、南北朝時代に作られたもので間違いないそうです。ただ、崩落の危険があるため立入禁止となっており、見学はできません。
 さて、小田城滞在から関城滞在にかけて、北畠親房は南朝方の味方を増やすべく、2つの取組を進めました。1つが「関城書(かんじょうしょ)」と呼ばれる書状を送ったこと、もう一つが「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」と呼ばれる歴史書を著したことです。ここからは、この2点を詳しく紹介していきましょう。
 まず、親房は関東の武士たちに次々と手紙を書き送り、南朝方に味方して決起するよう呼び掛けました。
 最も多くの書状が残っているのが、前述のとおり白河小峰城(福島県白河市)を拠点とする結城親朝です。親朝は南朝に尽くした結城宗広の子であり、あの三木一草の一人である結城親光の兄に当たりますから、親房としては期待をかけていたのでしょう。しかし親朝は期待に反して日和見を始め、北朝方につく姿勢を見せ始めてしまったため、親房はひたすら説得を繰り返しています。
 親朝への書状は、延元3/暦応元(1338)年9月29日付けから興国4/康永2(1343)年8月23日付けまで、5年間で約70通です。それほどまでして説得しなければならなかった北畠親房の苦衷が察せられるようです。
 これらの手紙は、親房が小田城にいることから始まっているものの、関城に滞在中のものが多いことから「関城書(かんじょうしょ)」と呼ばれています。極めて格調高い名文であることや、そもそも中世において同一人物から同一人物に宛てての書状がこんなに多く残っているのは世界的に見ても珍しく、中世史研究の上で第一級の史料とされています。
 なお、この関城書の総数については、研究者によって
「間違いなく親房が親朝に宛てた手紙かどうか」
の判断が異なり、68通、73通、106通などの説があります。
 いずれにせよ大量の書状なのですが、これほどの説得を受けておきながら、結城親朝は興国4/康永2(1343)年には南朝を裏切り、北朝方についてしまうのです。
 一体「関城書」の何がいけなかったのでしょうか。北畠親房の説得はどこが足りなかったのでしょうか。

茨城県筑西市の関城跡にある地下坑道跡。明らかに昭和期にコンクリートで整備されており、中に入らなければ南北朝時代の遺構は見られないようだ。崩落の危険性を払拭した上で公開してほしい。

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