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30年日本史00921【南北朝最初期】謎の北畠ターン

 その頃、京の尊氏軍のもとには
「まもなく北畠軍がやって来る」
という噂が聞こえて来ていましたが、美濃国の土岐頼遠が食い止めてくれるだろうとの期待がありました。ところが青野原で土岐率いる足利軍が敗北したとの情報が入り、尊氏軍は慌てふためきます。
「宇治と瀬田の橋を落として待とうか。はたまた、一旦西国に逃れて四国・九州の軍勢を集めてから逆襲しようか」
などといろいろな意見が出て議論がまとまらない中、高師泰が言いました。
「昔から、宇治・瀬田の橋を落として戦って、上手く都を防衛できたためしがない。不吉な例を踏襲してしまうよりは、むしろ急いで近江・美濃辺りに攻めかかって、戦いを都の外で決するのがよいのではないか」
 確かに、そもそも京都を防衛する際に宇治や瀬田あたりで戦っている時点で負けなのです。より早い段階で敵を蹴散らさなくてはいけません。
 この師泰の意見に尊氏も師直も賛成し、延元3/建武5(1338)年2月4日、高師泰、六角氏頼、佐々木道誉といった北朝方の将軍たちが1万騎で京を出発し、2月6日には黒地橋(岐阜県関ヶ原町)に到着しました。ここで勝敗を決しようというわけです。
 ところが、待てど暮らせど北畠軍は現れません。というのも、北畠顕家はなぜか垂井(岐阜県垂井町)まで兵を進めておきながら、突然ルートを変えて伊勢へと向かったのです。まさに謎の反転であり、後世のレイテ沖海戦における栗田ターンと類似した「北畠ターン」とでも呼ぶべき出来事でした。
 このまま黒地橋の敵を蹴散らして、琵琶湖畔において越前の新田義貞軍と合流すれば、京の尊氏軍に勝利する可能性が高まるのに、なぜみすみすそのチャンスを棒に振ったのでしょうか。
 「太平記」はその理由について、「顕家が自分の手柄を義貞に取られてしまうことを恐れたため」と説明しています。しかしその程度の理由で勝機を逸するような顕家ではありませんし、顕家と義貞が特に険悪だったという伏線もみられません。
 他にも「顕家軍にいた北条時行が、父の仇である新田義貞と組むのを嫌がったため」という説がありますが、既に顕家軍には義貞の次男・義興がいるのですから、これも理由付けとして納得いくものではありません。
 最も納得いく理由は、「青野原の戦いは決して快勝ではなく辛勝であり、北畠軍も大きな打撃を受けたから」というものです。つまり、黒地橋の足利軍に勝利できる見込みがない中、義良親王を危険にさらすわけにいかないため、一旦退いて態勢を立て直すために伊勢に向かったというわけです。これならあり得そうな気がします。

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