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30年日本史00748【鎌倉末期】北朝初代光厳天皇*

 元弘元/元徳3(1331)年9月5日。鎌倉では、後醍醐天皇の倒幕計画が予想以上に大規模であったことを知り、さらに大軍を送り込むことに決しました。
 大将軍として選ばれたのは、
・大仏貞直(おさらぎさだなお:?~1333)
・金沢貞冬(かねさわさだふゆ:?~1333)
・名越時見(なごえときみ)
らの北条一族。そして有力御家人からは足利高氏が選ばれました。
 室町幕府初代将軍の足利尊氏がここで初登場しましたが、この時点での名前はまだ「高氏」です。元服の際に北条高時から「高」の一字をいただいた名前ですね。彼が「尊氏」と漢字表記を改めるのは、鎌倉幕府を倒した後の話です。
 彼ら討伐軍が京に向かうまでの間に、反乱は各地に広がっていました。9月11日には楠木正成が下赤坂城(しもあかさかじょう:大阪府千早赤阪村)で挙兵しますし、9月14日には、桜山城(広島県福山市)で桜山茲俊(さくらやまこれとし:?~1332)が挙兵します。いずれも詳細は後述します。
 幕府方は強気に出ます。
「倒幕を企図した後醍醐天皇は、もはや天皇とは認められない」
として、9月20日、皇太子・量仁親王を即位させることとしたのです。鎌倉から派遣された二階堂道蘊と安達高景(あだちたかかげ:?~1333)が、公卿の西園寺公宗を味方につけて行わせた天皇交代劇でした。
 即位とはいっても、三種の神器は後醍醐天皇が持ち出してしまっています。幕府はやむなく、神器なしに花園上皇の詔だけで即位させることとしました。これは平家が安徳天皇を連れて都落ちした際の、後鳥羽天皇の即位の方式を前例とするものでした。さらに、後醍醐天皇はまだ自分が天皇位にいると主張していますから、天皇が2人いるという南北朝動乱の混乱した状況はここから既に始まっていたといえます。
 即位した量仁親王は光厳(こうごん)天皇となりました。後醍醐天皇が南朝の初代となるのに対し、この光厳天皇が北朝の初代となるのですが、その経緯は今後詳しくお話しすることになるでしょう。
 京に到着した討伐軍は、まずは後醍醐天皇の立て籠もる笠置山を落とすこととしました。9月26日、大仏貞直と金沢貞冬が京を出て、笠置山に向かいます。本格的な笠置包囲戦の始まりです。

栃木県足利市にある足利尊氏像。かつては逆賊として忌み嫌われた時代もあったが、今や人気武将といってよい。

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