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30年日本史00942【南北朝初期】南北朝初期概観

本日から、前書きみたいなものを数行程度ここに挿入することにします。
「30年日本史」の本文に書くようなレベルの話ではないんだけど、ふと思ったこととか関連史跡を見に行った話などをここに放り込めれば良いなと思います。まあ、毎日続けられるかどうかは分かりませんが・・・。

 ここからは稿を改め、「南北朝初期」として後醍醐天皇が崩御した延元4/暦応2(1339)年8月16日から、南朝が賀名生に移る正平3/貞和4(1348)年1月30日までの8年半を取り上げます。非常に影の薄い時代といってよいでしょう。
 南北朝時代といえば、後醍醐天皇・楠木正成・北畠顕家・新田義貞らが活躍する時期(1333~1339)と、観応の擾乱が起こる時期(1348~1352)がひたすら有名であり、その間の時期はさほど有名な出来事がないのです。
 例えば、大河ドラマ「太平記」は全49回で構成されていましたが、後醍醐崩御は第41回で、観応の擾乱の始まりは第43回でしたから、この8年半が僅か1回で描かれているということです。それも、尊氏・直義兄弟の母が「兄弟仲良くするように」と遺言して亡くなるというフィクション要素の強い回でした。
 本章が取り上げる8年半の出来事を簡単にまとめると、
「南朝の主要人物が次々と戦死するとともに、南朝の首都である吉野が炎上し、後村上天皇をはじめとする南朝の人々は賀名生に逃れた」
といった具合でしょうか。南朝側は更なる死に体です。
 こうまとめると、「南朝の主要人物は延元4/暦応2(1339)年までに既に全員死んでいるではないか」と思われるかもしれません。確かに正成・顕家・義貞といった有名どころは既に戦死しており、本章で取り上げる南朝の主要人物というのは
・楠木正成の嫡男の楠木正行
・新田義貞の弟の脇屋義助
ですから、少々知名度が落ちるのは否めません。
 しかし、大日本帝国時代には、楠木正成とともに嫡男の正行も神聖視されており、正行が戦死した四条畷の戦いは、正成が戦死した湊川の戦いと並ぶ重要エピソードと捉えられていたようです。
 また、賀名生(あのう:奈良県五條市)という地名は初めて聞いた方も多いのではないでしょうか。南朝の首都といえば吉野(奈良県吉野町)をイメージされる方が多いと思いますが、実は正平3/貞和4(1348)年1月28日というかなり早い段階で吉野は北朝の攻撃を受けて陥落しており、それ以降、南朝の天皇は多くの時期を賀名生で過ごしているのです。
 本章においては、前章に引き続き「太平記」を軸として、
・脇屋義助の越前を拠点とした戦い
・楠木正行の吉野を拠点とした戦い
・北畠親房の常陸を拠点とした調略活動
を並行して描いていきたいと思います。

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