30年日本史00575【鎌倉前期】後鳥羽院政
後鳥羽天皇が譲位し、上皇となりました。ここから後鳥羽院政が始まります。
「院政」とは上皇が治天の君として政務の最高権力者として振る舞うことをいいますが、「鎌倉幕府が誕生した以上、朝廷には何らの権限がなく、院政といっても上皇に何ができるのか」と疑問を抱かれるかもしれません。しかし、この時点では鎌倉幕府には西国への統治権はありません。西国に住む武士への人事権や西国の荘園の管理権は依然として朝廷が握っており、その朝廷の権限が後鳥羽上皇一人に集中しているため、これを院政と呼称するのです。
その後、室町幕府や江戸幕府が成立した後も、摂関、太政大臣といった人事権は(幕府の了承を得なければならないケースもありますが)朝廷にあり、その権限を行使するのが上皇であれば「院政」といいます。
さて、後鳥羽上皇の個性を示す逸話を2つ紹介しておきましょう。
後鳥羽上皇のもとに、
「最近都を荒らしている盗賊・交野八郎(かたのはちろう)の潜伏場所が判明したので捕らえに行く」
との報告がありました。なんと後鳥羽上皇は、自ら櫂をとって船を漕ぎ、捕り物を見物に行きました。川沿いの民家で捕り物が始まりましたが、交野八郎は格闘することもなく大人しく投降しました。
後鳥羽上皇が交野八郎に
「なぜ大人しく捕らえられたのか」
と尋ねると、交野八郎は
「上皇様が櫂を扇のように軽々と扱うのを見て、もはやこれまでと諦めて投降しました」
と述べ、上皇は大いに満足したといいます。後鳥羽上皇は好奇心旺盛で向こう気の強い人物だったと考えられます。
もう一つは順徳天皇即位後のエピソードですが、後鳥羽上皇が熊野詣に出かけた留守中に、順徳天皇が賭弓(のりゆみ:命中した数に応じて商品をもらえるもの)を主催した話です。このとき、重長(しげなが:苗字不明)という近習がふざけて「擬主上」となり、「擬関白」を率いて賭弓を見物しました。「主上」とは天皇の呼び名ですから、つまり天皇のふりをして、関白のふりをした者を引き連れていったというのです。
順徳天皇もこの余興を楽しみ、近習が天皇を演じるのを見ていたといいます。
帰京後、この賭弓の話を聞いた後鳥羽上皇は順徳天皇をたしなめました。天皇の権威を貶めるような行動は慎めというわけです。権威の維持にあくまでも厳格な後鳥羽上皇の姿が垣間見えるエピソードです。