30年日本史00693【鎌倉中期】弘安の役 元寇防塁の効果
さて、いよいよ二度目の蒙古襲来・弘安の役が始まります。文永の役では3万人程度だった元の軍勢は、今回は最初に来襲した東路軍約5万人と、後から合流した江南軍約10万人、合わせて約15万人の大軍勢となりました。東路軍は朝鮮半島から出発し、江南軍は江南(中国南部)からそれぞれ出発し、九州沖で待ち合わせる計画でした。
弘安4(1281)年5月3日、東征都元帥・忻都(ヒンドゥ)率いる東路軍が朝鮮半島の合浦を出発しました。巨済島に滞在した後、対馬に来襲してきたのが5月21日、壱岐に来襲してきたのが5月26日です。
八幡愚童訓には
「高麗軍は、対馬・壱岐で目に入った者を全て打ち殺した」
と書いてあり、これが事実だとすると文永の役のときと同様、対馬・壱岐では戦闘員・非戦闘員の区別のない殺戮があったということになります。
一方、元史によるとフビライは出航前に
「他国の領土を獲るということは、その国の土地と民を我が物にするということだ。民を殺してしまっては、土地をとってもそれを耕す者がおらぬぞ」
と諸将を戒めたとの記述があり、高麗軍がそれを意識的に破るとは思えないとの意見もあり、非戦闘員の殺戮の有無は今もよく分かっていません。
さて、東路軍と江南軍は6月15日に待ち合わせることとしていましたが、軍功を挙げたい東路軍は、状況によっては江南軍の到着を待たず攻撃を開始しようということで、あらかじめ本国の了解を得ていました。6月6日、東路軍は九州上陸を目指し、博多湾岸に接岸を試みました。
しかし、岸を見た東路軍は驚きます。文永の役の際にはなかった約20kmにも及ぶ石垣が築かれていたのです。この石垣は文永の役を受けて幕府の命で作られたもので、高さは最大で3メートルにも及び、幅は2メートル以上もありました。しかも防御する日本側からは馬で駆け上がれるようスロープ状になっており、攻撃する海側からは近づけないように杭や逆茂木(さかもぎ)といった障害物を設置していたのです。この石垣を「元寇防塁」と呼びます。
ここに配置されていた御家人は、伊予国(愛媛県)を拠点とする河野通有(かわのみちあり:1250?~1311)でした。河野はあえて石垣よりも海側に陣を布き、自ら石垣を背にして元軍に挑みました。不退転の意気込みを示そうとしたのです。
しかし東路軍は河野との対戦を避け、博多湾を後にしました。石垣を見て上陸不可能と悟ったのでしょう。東路軍はより容易に上陸できそうなところを探し、志賀島に接岸を開始します。