30年日本史00014【旧石器】早水台遺跡の発見
昭和28(1953)年。芹沢は矢出川(やでがわ)遺跡(長野県南牧村)の発掘を行いました。明大考古学研究室の同僚たちを誘ったものの、杉原抜きで発掘を行ったのです。ここでは後期旧石器の細石刃(さいせきじん)を発見することができました。
このとき、二人の仲を決定的なものとする事件が起こります。杉原の弟子である戸沢充則(とざわみつのり:1932~2012)が、矢出川遺跡の調査報告書を芹沢に無断で学界に提出したのです。発掘に誘われなかった杉原が手を回したものと考えられます。
昭和36(1961)年。芹沢は明治大学を飛び出し東北大学へ籍を移しました。それまでの間は、考古学の世界では東大閥と明治閥の対立が有名だったのですが、これ以降、東北大学が考古学の世界で抜きん出てくるようになり、東北閥と明治閥の対立が目立つようになります。相澤はというと、当然芹沢とばかり交流し、杉原とはさらに険悪になりました。
相澤は、大学生の訪問客があるといつも親切に石器を見せて説明してあげていたのですが、この頃から、相手が明大生だと分かると冷淡に振る舞うようになったといいます。
1960年代に入ると、前期旧石器時代存否論争を進展させる出来事がいくつかありました。
昭和39(1964)年。芹沢が早水台(そうずだい)遺跡(大分県日出町)の発掘で、10万年前とみられる地層から石器を発見しました。前期旧石器時代の存在を示す大きな発見です。しかしながら、その石器は岩宿のようなはっきりした石器ではなく、自然石にも見えるものでした。学界の反応は冷ややかでした。
昭和42(1967)年。芹沢の発見を否定するかのように、杉原は
「人工石と認定する基準を厳格にすべきだ」
と主張する論文を発表しました。芹沢へのあてつけと見えなくもありません。
時代区分の名称をめぐっても、芹沢ら東北閥と杉原ら明治閥とは対立しました。杉原らは「先土器時代」と呼称すべきだと主張し、芹沢らは「旧石器時代」と呼称すべきだと主張したのです。
私が小学生の頃、教科書には「先土器時代」と書かれ、括弧書きで(旧石器時代)と併記されていました。明治閥の方が強かったのでしょう。しかし現在の教科書は「旧石器時代」で統一されています。東北閥が競り勝ったということなのかもしれません。
ちなみに杉原の死後、明治閥は「先土器時代」改め「岩宿時代」と呼称し始めました。確かに「旧石器時代」「縄文時代」「弥生時代」と呼ぶよりも、「岩宿時代」「大森時代」「弥生時代」と呼ぶほうが一貫性があるようにも思えますね。
このように、時代区分の呼称を見るだけで、どちらの学閥に属しているかが分かるのです。