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30年日本史01146【南北朝後期】神崎川の戦い再び
この時代、同じ場所で戦闘が繰り返されるものですね。戦いやすい広い場所が限られているからでしょうか。
細川清氏が討たれ四国が北朝方の手に落ちたと知った南朝方は、さすがに危機感を覚えます。どうにか諸国の南朝方に勢いを見せようと、正平17/康安2(1362)年8月16日、楠木正儀・和田正武ら6千騎が神崎橋(兵庫県尼崎市)へと進軍しました。神崎橋といえば、前年9月28日にも南北朝両軍が戦った場所ですね(01124~01125回参照)。
この頃、摂津守護は佐々木道誉でしたが、道誉自身は京に詰めて現地での仕事は守護代の箕浦定俊(みのうらさだとし)に任せていました。といっても箕浦勢は僅か500騎。敵を防ぐため、神崎川にかかる橋を焼き落として待ち構えていました。
神崎川を渡る方法を失った楠木・和田軍は、川を上って三国(大阪市淀川区)あたりで神崎川を渡り、箕浦軍を後ろから襲うことにしました。
それを知らない箕浦は、いつの間にか後方の昆陽野(こやの:兵庫県伊丹市)や富松(兵庫県尼崎市)で火が上がったことに驚きました。
「さては敵は既に神崎川を渡ったとみえる。これでは平地で戦うのは難しい。城へ引き返して籠城戦といこう」
と言って、浄光寺砦(現在の長興寺:大阪府豊中市)に引き返そうとしますが、敵は既に浄光寺砦をも占拠していました。箕浦はやむなく浄光寺砦の傍を素通りして京まで逃亡しようとします。
楠木・和田軍はこれを逃さず箕浦の行く手を遮ります。箕浦軍は敵軍の真っ只中を戦いながら駆け破り、死傷者を出しながらも突っ切っていきます。
激烈な追撃戦が始まりました。楠木・和田の猛烈な追跡で、大将・箕浦定俊は遂に討たれました。
勢いに乗じた楠木・和田軍は、さらに9月16日には赤松軍が支配していた湊川(神戸市兵庫区)をも占領しました。ここではこれといった戦いも起こらず、赤松軍は逃げていきました。
しかし南朝方の勢いはここまででした。9月23日、北朝は「貞治」と改元した上で大規模な鎮圧軍を派遣して来ました。勝ち目がないと判断した楠木・和田は占領を解いて河内に戻らざるを得ませんでした。
丹波を占領していた山名時氏もまた、敵の大軍勢を見て因幡へと退却していきました。
細川清氏の寝返りによって勢いを得ていた南朝方は、予想以上に早い清氏の戦死によって早くも勢いを失ってしまったのでした。太平記は
「楠木らの運が開けなかったのは、清氏が軽率な戦いで戦死したためである」
と、清氏に厳しい目を向けています。