30年日本史01063【南北朝中期】直冬、長門に逃れる
山名勢による京都攻めを説明する前に、正平7/観応3(1352)年の出来事を一通り紹介しなければなりません。
9月27日、北朝の後光厳天皇は「文和」に改元しました。10月には「河原の御祓え」、11月には「大嘗会」が行われ、三種の神器はないものの即位に関する儀式は一通り終わったことになります。
文和改元に前後して、九州の戦況が大きく動くこととなりました。
九州情勢については、前述したとおり
①北朝尊氏党: 一色氏(九州探題)
②北朝直義党: 足利直冬と少弐氏
③南朝方: 懐良親王と菊池氏(征西府)
と3勢力に分かれ、
「当初は①②が連携して③と戦っていた」→「やがて①③が連携して②と戦うようになった」
という状況にありました(01033回参照)。ここに、大内氏という周防(山口県)を領国とする武将が新たに登場します。
大内弘世(おおうちひろよ:1326~1380)率いる大内氏は、当初は幕府の指示を受けて北朝方として戦っていました。その後、観応の擾乱が始まると直義党に属し、足利直冬の傘下に入りました。
しかし、大内氏は決して一枚岩ではありませんでした。弘世から見て大叔父に当たる鷲頭長弘(わしずながひろ:?~1351)が、尊氏党についてしまったのです。長弘は鷲頭荘(山口県下松市)を拠点とする武将で、室町幕府から周防守護に任ぜられました。
弘世は1年に渡って大叔父・長弘と抗争を繰り広げますが、正平7/文和元(1352)年の暮れ頃に、どうにか講和することができました。こうして周防は直義党(直冬党)の手に落ちました。
時折しも九州では、11月12日に椿・忠隈の戦い(福岡県飯塚市)が起こり、直義党の足利直冬が尊氏党の一色範氏に敗れました。追い詰められた直冬は九州から長門(山口県)に逃れ、大内氏と合流することとなります。
さっきまで絶大な勢力を誇っていた直冬が九州から追い出されてしまったわけですが、追い詰められた直冬がとった行動は……なんと、南朝軍の菊池氏と手を組むことでした。
最初は直冬・一色が連携して菊池と戦っていたのに、いつの間にか一色・菊池連合が直冬を九州から追い出し、そして今度は直冬・菊池で連携して一色と戦おうというのです。
あまりに無節操な話ですが、中央政界でも直義が尊氏に毒殺され、直義党は南朝へと身を投じたわけですから、それが地方に影響し、直義党の直冬と南朝方の菊池が手を結んだということなのでしょう。