
30年日本史00769【鎌倉末期】吉野城の戦い 岩菊丸の奇襲
元弘3/正慶2(1333)年2月16日、幕府方の二階堂道蘊は6万騎を率いて吉野城に向かいました。
「菜摘川から城を見上げると、尾根には白、赤、錦の旗が多数立ち並び、山麓には数千の兜や鎧が輝き、錦の刺繍を敷いたかのようだった」
と「太平記」は伝えています。
2月18日、両軍は矢合わせを開始しました。二階堂軍は兵の数を頼みに力攻めを続けますが、地形を知り尽くしてそれを活かしながら戦う護良親王軍に翻弄されるばかりです。じわじわと吉野城に迫っていく幕府軍ですが、7日経った時点で護良親王軍の戦死者300人に対し、二階堂軍の戦死者は800人を超え、ひどい苦戦を強いられていました。
吉野の金峯山寺の執行を務める岩菊丸(いわぎくまる)は、幕府方に味方し、山の道案内役として二階堂軍に加わっていました。この岩菊丸が次のように進言しました。
「既に上赤坂城を攻めていた幕府軍はこれを陥落させ、千早城攻めに向かったと聞きます。我々は吉野城を一向に攻め落とすことが出来ず、何とも情けないことではありませんか。考えてもみれば、あの城は正面から攻めても落とすのは困難です。むしろ裏手の金峯山の方から攻め込んでみてはどうでしょう。あそこは地形が険しいから、敵もまさかここから攻め込まれることはないだろうと油断して、防備を手薄にしているに違いありません。地理に詳しい者を150名ほど編成し、夜陰に紛れ潜入させて、夜明けとともに一気に攻め込めばよいでしょう」
なかなかの知恵者がいたものですね。
さっそく厳選された150人余りが夜中に金峯山へと忍び込んだところ、岩菊丸の読み通り、敵兵は一人もいませんでした。潜入した軍勢は木や岩に隠れて夜明けを待ちました。
夜が明けたところで潜入軍が城の方々に火を放ち、同時に二階堂軍5万あまりの兵が三方から一斉に城めがけて攻め上げました。護良親王軍は前後から挟み撃ちにされて総崩れとなり、堀が死者で埋まりまるで平地のようになったといいます。
護良親王は吉野城の蔵王堂に籠もっていましたが、もはや逃げられないと覚悟を決め、赤地の鎧直垂(よろいひたたれ)に身を包み、龍頭の飾り付き兜をかぶりました。この豪華な鎧と兜はあまりに目を引くもので、一目で親王だと分かります。
その護良親王の周りには、20人の猛者が集まり、やって来た敵を次々と斬っていきました。幕府軍は親衛隊のあまりの強さにたじろぎ、退いていきます。
幕府軍を一時的に撃退したものの、護良親王の鎧には矢が7本も突き立っており、頬と二の腕の2ヶ所に突き傷を負い、流れる血は滝のようでした。親王は死を覚悟して、
「最期の酒宴を始めよう」
と言って酒を飲み干しました。側近の木寺勝憲(きでらかつのり:?~1333)は4尺3寸の太刀の先に敵の首を刺し貫いた状態のまま、太刀を持って親王の前で舞い始めます。