30年日本史00543【鎌倉初期】衣川の戦い 義経の最期
屋根の上で矢を放っていた喜三太は、敵の矢に当たって討ち死にしました。
一方、館の前で薙刀を構え仁王立ちする弁慶は、近づいてくる者を次から次へと斬り捨てます。あまりの強さに怖気づいた敵は、弁慶に近づけなくなりました。敵は弁慶と距離を取った上で、安全圏から大量の矢を射かけます。
弁慶の全身に矢が刺さりました。泰衡軍の兵たちが「これでもう動けまい」と近づいてみると弁慶はまた暴れ回り、次々と人を斬っていきます。兵たちは慌てて逃げ出し、また遠くから矢を大量に射かけました。
今度こそ、弁慶は立ったまま全く動かなくなりました。「さすがに死んだのでは」と思った武将が、馬を走らせて弁慶にぶつけてみたところ、弁慶の巨体はドンと音を立てて倒れ、死んでいたことが分かりました。世に名高い「弁慶の立ち往生」です。
一人残った兼房は、覚悟を決めて館にいる義経のもとに走り寄りました。兼房の様子を見て戦いに決着がついたことを悟った義経は、妻・郷御前と子を手にかけた後、兼房の目の前で割腹を遂げました。兼房もまたその後を追いました。
江戸時代の天和3(1683)年、仙台藩の4代藩主であった伊達綱村(だてつなむら:1659~1719)が、義経を偲んで「高館義経堂(たかだちぎけいどう)」を建てました。この高館義経堂には、本尊として木造の源義経公像が納められています。
俳人の松尾芭蕉は元禄2(1689)年に平泉を訪れ、高館義経堂に立ち寄っています。ここで詠んだ句が、有名な
「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」
です。
平家追討に最も大きな功績を上げつつも、兄との不和から30歳の若さで滅亡していった義経の悲劇的な生涯は、能、歌舞伎など多くの作品のテーマとなりました。
また義経は父・義朝の九男で、左衛門府の三等官(判官)に当たる「左衛門少尉」であったことから、当時の人々から「九郎判官(くろうほうがん)」と呼ばれていました。人々が弱者に対して同情心を抱く心理現象を「判官贔屓(ほうがんびいき)」と呼ぶようになるなど、後世に大きな影響を与えているといえるでしょう。
義経が主人公となる作品が多いことから、逆に頼朝は悪役として描かれることが多くなりました。猜疑心から次々と身内を葬っていく頼朝は、確かに世の人々の共感を得られない人物でしょう。しかし、義経には政治的嗅覚が致命的に欠如していたこと、鎌倉幕府という新しい武士団を経営していこうとする頼朝の意図を全く理解できていなかったことは確かです。義経ではなく頼朝を主役にして、「経営者・頼朝が組織のために泣く泣く身内を切り捨てる」といった形で描くのも、また深みのあるドラマになりそうです。
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