30年日本史00958【南北朝初期】関城書 説得失敗
「関城書」による説得が失敗した理由について考えていきましょう。
1点目は、親房が武士の実情を理解せず、観念論を繰り返していた点が挙げられます。
結城親朝にとって、所領は自らの力で勝ち取ったものであり、これをいかにして守り抜き、あるいは拡大していくかに関心があります。ところが親房にとって、所領とは全て朝廷から認められるべきものであって、武士が自力で拡大することは許されません。
親房は、南朝方の味方として戦いに参加すればどのような恩恵があるのかを説こうとせず、ひたすら観念的に「尊皇の気持ちをもって朝廷に奉仕せよ」と説くばかりです。
なお、親房は同時期に石川某という武士に
「武士が皇室・公家に忠実に仕えるのは当然。領土の拡大や地位の向上を目指すのは商人の所存である。降参人は半分の土地だけを安堵されるのが古来の習わしで、本領を安堵してやるだけでも有り難いのに、さらに領地を求めるとは何事か」
と主張しており、なんと南朝方につくと所領が増えるどころか、「本来なら半分に減るのだぞ」と勿体ぶってから「減らさないでおいてやる」と上から語りかけているのです。
親朝への書状の中にも同様に領土拡大を目指すことを戒める記述があり、これでは全く支持は得られないでしょう。
一方、尊氏もまた常陸の有力武士たちに次々と書状を送っていました。これは常陸ではなく陸奥の武士への書状の例ですが、
「信夫郡の余目駿河入道の跡地については心配するな。現在の所領の安堵も問題ない」
と記した書状が現存しています。気前の良い尊氏は土地を簡単にあげてしまう人物ですから、地方武士の心を次々とつかんでいったことでしょう。
2点目は、親房が南朝方の苦境を事実として伝え過ぎた点でしょう。
親房は、小田城の背後にある宝篋山が陥落したこと、小田城の中にも敵に内通する者が現れたことなど、自らの苦境を余すところなく伝えています。多くの武士は損得勘定で動くものですから、勝ち馬に乗りたいのが当然なのに、親房は北朝方優勢という事実をそのまま伝えてしまっているのです。ここは嘘でも南朝方が有利と言っておくべきでした。実際、尊氏は味方を増やすために戦況が有利だと嘘をついたりしているのです(00857回参照)。
いずれにせよ、親房は自身の精神論が武士に届くと思い込んでいるようです。「相手方がどのような精神構造を持っていて、どこを突けば折れてくれるのか」といったことに何ら注意を払わないまま、70通もの書状を送り続けたのです。
戦前においては、親房にのらりくらりと回答を渋る親朝の優柔不断さや日和見姿勢を糾弾する歴史家が多かったようですが、戦後においてはむしろ
「武士の実情を理解せず非現実的な説得を繰り返す親房の姿勢があまりに頑迷である」
との見方が強まっています。さもありなんといった印象です。