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30年日本史00972【南北朝初期】藤井寺の戦い

楠木正行は戦前期には相当な有名人だったらしいのですが、今はほとんど知られてないですね。数十年後には坂本龍馬も知られなくなるのでしょうか。

 さて、いよいよ楠木正成の嫡子・正行の戦いが始まります。この戦いは「太平記」に詳しく書かれているものの、史実と大きな差があるようなので、戦闘の実像については古文書で明らかとなった事実を中心に描きつつ、「太平記」上の有名エピソードも紹介していこうと思います。
 正平2/貞和3(1347)年になり、湊川の戦いでは数え11歳だった正行も、今や22歳になりました。もう大将として兵を預かってもよい年齢です。
 7月に紀伊で挙兵した正行は、8月10日には隅田城(和歌山県橋本市)を攻撃しました。正行挙兵に呼応して摂津・和泉・熊野の南朝方も挙兵していたのですが、彼らは8月19日に北朝方の細川顕氏率いる鎮圧軍と激突し、一時は鎮圧され弱体化したかに見えました。
 しかし正行の進撃の勢いはすさまじく、8月24日には池尻(大阪府大阪狭山市)で北朝方を打ち破り、9月には八尾城(大阪府八尾市)を攻撃し、優勢に戦いました。
 将軍尊氏は八尾城での敗北を知り、細川顕氏・山名時氏に対していよいよ本格的な鎮圧を指示しました。この指示を受けて大将たる細川顕氏が繰り出した兵はこれまでより多く、約3千騎です。一方、正行が集められた兵は約700騎に過ぎません。
 9月17日、細川軍が藤井寺(大阪府藤井寺市)で休息していたところに、正行軍は奇襲をかけました。細川顕氏は「まだ正行の館まで距離があるだろう」と慢心していた上、正行が八尾城の襲撃を企図していると見せかけていたことにまんまと騙されていたため、完全に油断していたようです。
 細川軍の兵たちが
「敵が攻めて来たぞ。急いで馬に鞍を置け。武具を着けろ」
などと大騒ぎしているところに、大将の正行が真っ先に走り込んできます。細川顕氏は鎧を肩にかけた段階で、帯も太刀も身に着けることができない状況で襲撃されたのです。
 細川軍は数の上では有利なはずでしたが、四国や中国から寄せ集めた雑兵たちはひどく質の悪く、次々と逃亡してしまってまるで戦いになりません。顕氏は命からがら逃げ出しましたが、その側近たちは次々と戦死し、細川軍は一方的な大敗を喫しました。
 なお、細川軍が休息していた場所は「葛井寺」と書いて「ふじいでら」と読みます。現在も真言宗の寺院として現存していますが、その門前町は地名としては「藤井寺」という表記となっており、大阪府藤井寺市という自治体が存在します。
 藤井寺の戦いに快勝したことで、楠木正行は父・正成と同様に伝説的な武将となりました。これにより、北朝方は正行の鎮圧にこれまで以上に注力することとなるのです。

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