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30年日本史01084【南北朝中期】細川頼之・清氏の裏切り未遂

拉致されていた北朝皇族の皆さんがやっと帰ってきます。調べれば調べるほど本当に可哀想な人たちでした。

 話が一気に正平11/延文元(1356)年10月まで飛んでしまいましたが、少し引き戻しましょう。
 正平11/延文元(1356)年4月、またもや幕府の権威失墜を示す出来事がありました。幕府が細川頼之に安芸の直冬討伐を命じたのですが、頼之は
「彼らの所領を自由に家臣に分与してよいのなら、命令をお受けする」
と条件を付けて来たのです。
 戦で切り取った所領を誰に分配するかは、征夷大将軍の権限のはずです。これを自分にやらせてくれとは、あまりに恐れ多い主張です。
 さすがに幕府としても安易に了解はできません。返事を渋っていると、頼之はそれを不満に感じて勝手に京から出奔してしまいました。幕府が説得のために頼之の従兄弟・清氏を派遣すると、頼之はようやく帰洛したといいます。この一件を聞いた洞院公賢は、
「近来武士の所存みなかくのごとし。資をもって、その恥に替へむと欲するか」
(最近の武士はみんなこうだ。恥をかいてでも富を得ようとする)
と呆れ気味に日記に記しています。
 正平12/延文2(1357)年6月。今度はその細川清氏が、
「若狭守護に加えて越前守護も欲しい」
と言い出しました。これもあまりに傲慢な申し出です。当時の越前守護は、直義党で今は南朝方に裏切ってしまった斯波高経だったのですが、幕府は高経がそのうち北朝に戻ってくれるかもしれないと思い、あえて解任せずにいたのでした。
 清氏はこの申し出が幕府に許されないとみるや、憤慨して領国の阿波へ出奔してしまいます。去年は説得して連れ戻す役だったのが、今年は憤慨して出奔する側になってしまったのです。
 清氏はほとぼりが冷めた頃にまた京に戻ってきたようですが、いずれにせよ、守護が幕府の指示を聞かないという学級崩壊のような状況になっていたのは間違いありません。
 この2件の出奔事件の間の正平12/延文2(1357)年2月18日、賀名生に幽閉されていた北朝の皇族たちが「もう自分も子孫も皇位には就かない」と誓約させられた上でようやく解放されました。解放されたのは光厳上皇、崇光上皇、直仁皇太子の3名です(光明上皇だけはこの前々年に解放されていました)。幽閉期間は約5年に及びました。
 なぜこのタイミングで解放されたのかというと、皇族の生活費が南朝にとって負担になったためと考えられます。南朝方は九州を除いて全国的に戦況が悪化しており、出費に耐えられなかったのでしょう。
 しかし、京に戻った崇光上皇は、勝手に即位していた弟・後光厳天皇に対して怒り、皇位を自分の子に譲るよう要求するようになるのです。新たな兄弟対立の始まりです。

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