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30年日本史00982【南北朝初期】宗良親王の放浪

後醍醐の皇子8人の中でも、宗良は特に長年に渡って潜伏して苦労し続けた人物で、長野県・静岡県には数多くの伝説が残っているようです。井伊谷(静岡県浜松市)に行くと宗良親王の伝記マンガが買えるらしいのですが、読んでみたい・・・。

 吉野炎上の知らせを、後醍醐天皇があちこちに派遣した皇子たちはどんな気持ちで受け止めたのでしょうか。ここで後醍醐天皇の皇子たちが今どこにいるのか、改めてまとめておきましょう。
 長男・尊良は金ヶ崎城の戦いで自害し、次男・世良は早い段階で病没。三男・護良は中先代の乱で直義に斬られ、五男・恒良と六男・成良は越前で捕らえられ毒殺されました。七男・義良は後村上天皇として即位し、吉野から追われたところです。八男・懐良は九州で一大勢力を作り上げています。ここでは四男・宗良の動向について詳述しましょう。
 宗良親王は、海路で関東に向かっていたところを遠江国(静岡県西部)に漂着し、井伊谷城(静岡県浜松市)の井伊道政のもとに身を寄せていました(00935回参照)。
 ところが興国元/暦応3(1340)年に足利方の高師泰・仁木義長らに攻められて井伊谷城は陥落してしまいます。その後宗良親王は、越後国寺泊(新潟県長岡市)に逃れました。
 そこも危うくなって、興国3/康永元(1342)年には越中国に逃れます。
 不思議なことに、越中国は北朝方である井上俊清(00911回参照)が守護を務める国であり、北朝の勢いが強い場所のはずです。にもかかわらず宗良親王は越中国牧野(富山県高岡市)に2年ほど滞在しているのです。これは、守護所のあった放生津城(富山県射水市)から数キロしか離れておらず、なぜ攻め滅ぼされなかったのか疑問です。
 憶測ですが、井上俊清は北朝に属していながら、実際には南朝方に通じていたのではないでしょうか。その証拠に、同年10月25日に井上俊清は越中守護を解任され、追討の対象となります。後任の越中守護として井上追討を任されたのが、桃井直常でした。
 井上俊清の反乱は早期に鎮圧され、幕府は投降してきた井上を許して再び越中守護に就任させますが、井上はその恩を忘れて貞和3(1347)年に再び反乱を起こします。これも数ヶ月のうちに鎮圧されます。
 こんな複雑な情勢下の越中に、宗良親王は3年弱滞在したわけです。その間に詠んだ歌に
「何ゆえに 雪見るべくも あらぬ身の 越路の冬を 三年へぬらむ」
があります。三年も越中で雪を見て過ごす自らを嘆いたのです。
 宗良親王は興国5/康永3(1344)年から信濃大河原(長野県大鹿村)に移り、以後30年をここで過ごすこととなります。正平3/貞和4(1348)年1月の吉野炎上の知らせを受けた宗良親王は、弟・後村上天皇に
「たらちねの 守りをそふる み吉野の 山をばいづち 立ちはなるらむ」
と書き送りました。吉野山を出てどこへ行ったのかと問うたのです。後村上天皇の返歌は
「ふるさとと なりにし山は 出でぬれど 親の守りは 猶もあるらむ」
(吉野山を離れたけれど、父に今も守られている)
でした。

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