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30年日本史00980【南北朝初期】四条畷の戦い 正行の評価

昔は「小楠公」というともちろん楠木正行のことだと誰もが知っていたそうです。今は「横井小楠」という幕末の熊本藩士の方が有名かもしれませんね。

 楠木党の勇士・和田源秀は師直と刺し違えて死のうと近づきますが、後ろから湯浅太郎左衛門(ゆあさたろざえもん:?~1348)という男が近づいて源秀の両膝を切り、倒れたところに走り寄って首を斬りました。和田源秀は死に際に目を見開いて湯浅を睨み、死後もその目は閉じなかったといいます。
 その後、湯浅は病を発症して7日目に悶えながら死んだといいます。源秀の呪いにかかったのでしょう。
 源秀の弟に当たる和田正朝は、吉野の朝廷に参上して戦闘の報告をしようと、一人で東条(大阪府富田林市)の方へと逃げて行きました。
 そこに北朝方の安保直実(あぼただざね)が一騎で追いかけてきて、
「和田、楠木の人々は自害されましたぞ。それを見捨ててお逃げになるとは情けない」
と言葉をかけたところ、和田正朝は笑って、
「ではお相手いたそう」
と言って引き返し、太刀を持って斬りかかっていきました。安保直実は和田を挑発しておきながら、一対一の勝負では敵わないと思って退きます。
 安保が止まれば和田は逃げて安保がまた追いかける。和田が引き返そうとすると今度は安保が逃げる……ということが繰り返され、そうこうしているうちに、北朝方の兵が集まって来ました。和田正朝は矢で7ヶ所も射られ、遂に首を取られてしまいました。
 結局、四条畷の戦いでは、楠木正行・正時兄弟も、その従兄弟に当たる和田源秀・正朝兄弟も全てやられてしまい、南朝にとっては最悪の事態となりました。
 その後、明治時代になって正成は「大楠公」、正行は「小楠公」と呼ばれて神聖視されていきました。
 明治22(1889)年には、勅命により楠木正行を祀るための四条畷神社が創建されました。その後、飯盛山城の頂上には楠木正行像が造られました。
 なるほど楠木父子は立派な武将だったと思うのですが、それが「命を捨てて天皇に仕える」という好例とされて昭和初期に軍部に利用された感は否めません。そのせいで、戦後は一転して忌み嫌われてしまった感もあります。いずれのイデオロギーからも脱却して、純粋に楠木党を評価できる時代が到来してほしいものです。
 さて、長男正行と次男正時の死によって、楠木家の家督は三男正儀へと移っていきます。この正儀が今後、南朝のエースとして京を四度も陥落させるなど活躍していくのですが、その様子は南北朝中期の稿で取り上げていくことになるでしょう。

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