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30年日本史00529【鎌倉初期】河原津の戦いと河尻の戦い

 堀川夜討ちの翌日、つまり文治元(1185)年10月18日に、義経は後白河法皇に懇請し、頼朝追討の宣旨を下達されました。
 義経としては、頼朝が暗殺を企図した以上、もはや兄弟の断絶は決定的となったわけですから、正式に頼朝追討の命令をもらって本格的に兄との戦いに備えようとしたのでしょう。
 しかし案に相違して、従う武士は少数でした。義経の政治力の欠如は明らかで、負けそうな側に与する武士はいなかったというわけです。頼朝は朝敵となったわけですが、その知らせを聞いてもちっとも動じなかったといいます。自分が多数派を形成できるとの自信があったのでしょう。
 11月3日。どうやら鎌倉勢と正面から対決するのは不利だと判断した義経は、一旦西国に落ち延びることを決めました。いわゆる都落ちです。義経は後白河法皇に謁見して別れを告げてから、行家とともに数百騎を率いて西方へと旅立ちました。
 このとき義経には、平家都落ちのときと同様、後白河法皇や後鳥羽天皇を連れていくという選択肢もあったはずですが、義経がそれを検討した様子は一切残っていません。ここにもまた、良く言えば義経の人の良さ、悪く言えば政治的センスの欠如が見てとれます。
 義経たちが向かったのは、摂津国大物浦(だいもつうら:兵庫県尼崎市)でした。そこから舟に乗って九州を目指そうというのです。
 その途上、摂津国太田(大阪府茨木市)を通りかかったとき、地元の豪族で太田城主の太田頼基(おおだよりもと)は
「我が館のすぐ目の前を通るというのに、矢の一本も射かけずにいてよいものか」
と述べて、家来を引き連れて義経軍を追いかけました。
 太田頼基というのは、あまりに弱小な豪族です。城主が声をかけても集まった家来は僅か50人でした。その50人で、義経たち500人を河原津(大阪府茨木市)というところで取り囲んだのですが、人数の開きが大きすぎました。太田軍は義経軍に蹴散らされ、太田頼基は負傷し、追撃は失敗に終わります。
 翌11月4日。今度は摂津国河尻(兵庫県尼崎市の神崎川河口付近)において、義経は再び追撃を受けます。追撃したのは、九条兼実の日記「玉葉」によると太田頼基、鎌倉幕府の公式歴史書「吾妻鏡」によると多田行綱となっており、混乱があります。河原津で負傷した太田頼基がここまで追いかけてくるとは思えませんので、九条兼実の日記が間違っているのでしょう。
 河尻では多くの軍勢が義経を取り囲み、さんざんに矢を射かけてきました。この戦いにより、義経一行の多くは脱落しました。義経は命からがら、大物浦から舟に乗り込んだのです。

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