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30年日本史00613【鎌倉前期】和田合戦 朝比奈義秀の怪力伝説*

 反乱軍の中で、大倉御所を攻撃したのは義盛の三男・朝比奈義秀(あさひなよしひで:1176~)でした。朝比奈義秀は怪力の持ち主で、様々な伝説の持ち主です。
 「源平盛衰記」によると、木曽義仲の妾で女武者として有名な巴が、和田義盛の妻となって産んだのが朝比奈義秀だといいます。さすがにこれは、義秀の怪力伝説にふさわしい母親を用意しようということで作られた創作エピソードでしょう。
 朝比奈義秀の怪力伝説の一つは、「朝夷奈の切通しを一夜で切り通した」というものです。
 「切通し」とは、山の一部を削って道を作ったものを言い、三方が山に囲まれている鎌倉には七つの切通しがあります。
 そのうちの一つ、「朝夷奈の切通し」は、岩山を幅員約4メートル、高さ10メートルほど切って作られた道で、両側には幅30センチほどの側溝があります。吾妻鏡によると仁治2(1241)年4月から作り始めたとのことですから、建暦3(1213)年の和田合戦でお尋ね者となってしまった朝比奈義秀が作ったということはあり得ません。しかし、そのような伝説ができるほど怪力で有名だったということでしょう。
 もう一つのエピソードは「3匹の鮫を素手で捕まえた」というものです。こちらは後世に創作された伝説ではなく、公式歴史書たる吾妻鏡に載っている話です。
 正治2(1200)年9月、小坪の浜(神奈川県逗子市)で将軍頼家が若い御家人と共に笠懸をし、船を出して酒宴を催していたとき、朝比奈義秀に
「お前は水練の達者と聞いている。その芸を見せよ」
と命じました。義秀は海に飛び込み、海の底へ潜って三匹の鮫を抱きかかえて浮かび上がってきたというのです。現在、逗子海岸の海水浴場は数年に一度、サメが目撃されて遊泳中止に追い込まれているそうですが、朝比奈義秀のような剛の者はもう現れないのでしょうか。
 さて、その怪力の持ち主である朝比奈義秀が、実朝・義時・広元のいる大倉御所を攻撃しました。義秀は門を打ち破って庭に乱入し、御家人たちと斬り合いとなります。吾妻鏡には
「神の如き壮力をあらわし、敵する者は死することを免れず」
とありますから、義時側は相当な苦戦だったのでしょう。
 実朝は命からがら御所から脱出しますが、戦闘範囲は若宮大路にまで達し、夜通し合戦が続きました。大倉御所を始め多くの館が炎上する中、建暦3(1213)年5月3日、遂に和田義盛が戦死し、大勢が決しました。
 朝比奈義秀は行方知れずとなり、戦死したとも安房に逃れたともいわれています。なぜか遠く離れた宮城県大和町に朝比奈義秀の伝説が残っており、その伝説によると松島湾を掘削し、掘った土で「七ツ森」という山を造ったのは朝比奈義秀だということです。地元には「アサヒナサブロー」というゆるキャラも作られています。
 和田一族の墓は「和田塚」と呼ばれ、江ノ島電鉄の和田塚駅のすぐ傍にあります。

朝比奈義秀が一人で切り拓いたとの伝説がある朝夷切通し。雨の日に行くべき場所ではなかった。この切通しを超えると横浜市金沢区。

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