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30年日本史00542【鎌倉初期】衣川の戦い 義経襲撃

 秀衡は頼朝からの圧力にあくまでも抵抗して義経を守り抜く決意でしたが、子の泰衡にとってはあくまで我が身と家が大事であって、頼朝と敵対してまでも義経を守るつもりはなかったようです。
 文治5(1189)年2月15日。泰衡は末弟の頼衡を殺害しました。その動機について記録が残っていませんが、義経の扱いを巡る方針対立と考えられます。頼衡が「父の遺志を尊重して義経を守るべき」と説き、泰衡を怒らせたのでしょう。
 そして閏4月30日。いよいよ義経最後の戦闘である衣川の戦いが起こります。泰衡が手勢を放ち、義経の住む衣川館を襲撃したのです。
 義経を悲劇のヒーローとして描く「義経記」によると、泰衡軍が2万人の大軍であるのに対して義経側はたったの10人。
 どこの世界にたった10人を葬るために2万人の兵を送り込む大将がいるでしょうか。「義経記」は義経の強さを強調するためいろいろと誇張しており、実際は500人対10人の戦いであったと考えられていますが、いずれにせよ戦いと呼べるものではない一方的な殺戮であったと考えられます。
 義経を守るのは、武蔵坊弁慶、鷲尾三郎義久、伊勢三郎義盛ら一騎当千の家来たちです。伊勢三郎義盛は史実では既に死んでいますが、「義経記」ではまだ生きていて最後の戦いに参加しています。
 そして、義経の正室・郷御前もまた衣川館にいました。その郷御前の守役である十郎権頭兼房(じゅうろうごんのかみかねふさ)や下男の喜三太もいます。
 喜三太と兼房が敵の近づく気配を感じて屋根に上ると、敵はもうそこに迫っていました。二人は急いで矢を射かけます。弁慶も太刀を構えて敵陣に突っ込んでいきました。
 いかに義経の家来たちが強者揃いといっても、多勢に無勢、とても敵うものではありません。鷲尾三郎義久と伊勢三郎義盛は、敵に次々と傷を負わせていきますが、囲まれて致命傷を負い、もはやこれまでと覚悟し自刃しました。
 弁慶は喉を斬られて大量に出血しつつも、ひるまず敵に突進します。泰衡軍はあまりの恐怖に逃げ出しました。
 弁慶が館の中の義経のもとへ駆け寄ると、義経は覚悟を決めて経を読んでいました。
「戦況はどうか」
と尋ねる義経に、弁慶が
「皆、討ち死にしました」
と答えると、義経は
「これが最後の頼みだ。経を読み終わるまで敵を防いでいてくれるか」
と言います。うなずいた弁慶は、主君が読経を終えるまで何としても敵を押しとどめようと、館の前に立ち構えました。

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