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30年日本史01013【南北朝前期】備中の戦い
アニメ「逃げ上手の若君」第1シーズンが終わってしまいましたね。足利尊氏の悪役としてのキャラ付けが非常に面白く、見入ってしまいました。そんな悪い奴じゃないと思うんですがね・・・。
尊氏は八幡や比叡山の敵に襲われ、播磨の書写山(兵庫県姫路市)まで逃亡していました。石見にいた高師泰、その息子の師夏と早く合流しなければなりません。
一方、
「石見三隅城の攻撃を中止した高師泰が尊氏と合流しようとしている」
との情報をつかんだ直義党の上杉重兼(うえすぎしげかね)は、八幡から海路で備後国の鞆(とも:広島県福山市)へと向かいました。この上杉軍に次々と兵たちが集まってきて、
「その軍勢は雲霞の如くであり、草木さえもなびいた」
と太平記は伝えています。
上杉軍が鞆に上陸してみると、高師泰・師夏らは既に京に向けて出発した後でした。上杉重兼は直ちに東へ向かい、これを追跡します。
師泰・師夏軍が勢山(岡山県真備町)を通り過ぎたあたりで、上杉軍2千騎がこれに追いついてきました。正平6/観応2/貞和7(1351)年1月13日早朝のことです。
師泰・師夏軍の殿(しんがり)にいたのが、陶山高直(すやまたかなお:?~1351)の軍でした。陶山軍の兵たちは矢で必死に応戦し、次々と戦死して川が死体で埋まったといいます。哀れなことに陶山軍がこれだけ戦っているのに、先を急ぐ師泰や師夏は全く気付かず先を急いでいました。
結局、陶山高直は槍で突かれて戦死しました。
高直の弟・陶山又五郎(またごろう:?~1351)もまた、敵と刺し違えようと考えていました。そこになかなか立派な鎧を着た土屋平三(つちやへいぞう)と名乗る武者がやってきたので、互いに名乗り合って組み合いました。
馬から落ちたところで又五郎が上になり、土屋を取り押さえたところで、土屋の味方である道口七郎(みちぐちしちろう)がやって来て又五郎を刀で刺しました。又五郎は不憫にも1対2でやられてしまったのです。
兄弟を殺された陶山一族は、一族郎党みんなで敵陣に割って入り、死に物狂いで戦いました。陶山一族は全員命を落としたものの、上杉軍に大きな被害を与えました。
こうして高師泰・師夏軍は多くの犠牲を払いながらも、備中を通過することができました。次に美作国では芳賀・角田氏らが700騎で立ちはだかりましたが、勢いに乗った師泰・師夏軍はこれをいとも簡単に撃破して、2月には尊氏のいる書写山に到着しました。
合流に成功したことにより、いよいよ尊氏軍は怒涛の反撃に討って出ることになります。