見出し画像

30年日本史00774【鎌倉末期】隠岐脱出

 ここからは、元弘3/正慶2(1333)年閏2月24日の後醍醐天皇の隠岐脱出劇を見ていきます。
 隠岐の西ノ島に流されていた後醍醐天皇を監視する役割を担っていたのは、御家人の富士名雅清(ふじなまさきよ:1296~1336)でした。この富士名雅清が幕府を裏切り、後醍醐方についてしまいます。千早城での幕府方の苦戦を聞いて、幕府滅亡を悟ったためかもしれません。
 隠岐脱出を計画する後醍醐天皇は、まずは雅清に一足先に出雲に乗り込み準備をするよう命じました。雅清は出雲で天皇の脱出を助けてくれる者を募ろうと、まずは出雲守護の塩冶高貞(えんやたかさだ:?~1341)に相談しました。
 しかし塩冶高貞に相談したのは間違いでした。高貞は協力どころか雅清を幽閉してしまったのです。
 富士名雅清との連絡が取れなくなった後醍醐天皇は不安になったでしょうが、閏2月24日、脱出計画を実行に移しました。阿野廉子に仕える女房の一人がちょうど出産するというので、そのお見舞いにかこつけて脱出したのです。
 同道する千種忠顕は港に向けて天皇を誘導しようとしますが、肝心なところで道に迷ってしまい、里人に港への案内を乞いました。その里人は事情を知って天皇を軽々と背負って案内してくれました。後に後醍醐天皇はこの恩人を探そうとしましたが、遂に見つからなかったそうです。
 霧の中、天皇一行は粗末な釣り船に乗って夜明け前に隠岐を出ていきました。隠岐守護である隠岐清高(おききよたか:1295~1333)がこの船に追いついて船内を捜索しましたが、後醍醐天皇は船底に逃れ、上に俵を積み重ねることで見つからずに済みました。さらに船頭が
「高貴な人の乗っている船を見た」
と追っ手に嘘を教えることで、隠岐清高らを別方向に誘導しました。
 協力者たちの存在だけでなく、天もまた後醍醐天皇に味方しました。隠岐清高の捜索を受けた直後、ちょうど追い風が吹いたおかげで、後醍醐天皇の船は東へ、追っ手の船は西へとそれぞれ流されていくことになりました。こうして、天皇は午後には無事に伯耆国名和湊(鳥取県大山町)に到着しました。
 陸に上がると、まず千種忠顕が地元の住民を見つけて
「このあたりの名のある武士は誰か」
と尋ねました。その住民が
「名和長年という者がこのあたり一帯を治めております」
と答えたため、天皇一行はその名和長年なる人物を頼ることとなりました。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集