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30年日本史01112【南北朝後期】仁木討伐 畠山出奔
この連載の第1回で「人物にとことんこだわりたい」という趣旨を書いているのですが、最近は人物と土地にこだわりたいと思えてきました。できるだけ全市町村を取り上げ、日本のどの土地にも歴史があるんだということを知ってもらいたいです。
将軍を失った仁木軍にもはや勝ち目はありません。義長は養子の頼夏を丹波に、弟の頼勝を丹後にそれぞれ逃がしつつ、正平15/延文5(1360)年7月18日、自身は自邸に火を放って京を出奔し、木津川沿いに伊賀路を通って伊勢国へと逃げていきました。頼夏はこの後、実父の細川清氏の元に戻ることとなります。
結局、仁木義長討伐は一切戦いが起こることなく、仁木一族が京から逃亡する形で幕を閉じました。仁木義長は全ての官職を失い、翌年2月には南朝方に転じることとなります。
幕府内で思わぬ内紛が起きたことで、勢いづいたのが南朝方です。和泉・紀伊・河内から北朝方の兵が次々と逃げ出し、南朝方は根来衆が守る紀伊国春日山城(和歌山県紀の川市)をやすやすと陥落させてしまいます。熊野でも北朝方・湯川の庄司(実名不明)が南朝方・湯浅宗藤にやられてしまいました。
南朝方が息を吹き返したことで、人々は北朝の内紛を発生させた原因である畠山国清を糾弾し始めました。この頃、五条大橋のそばにこんな高札が立てられたといいます。
「御敵の 種を蒔き置く 畠山 うち返すべき 世とは知らずや」
「いか程の 豆を蒔きてか 畠山 日本国をば 味噌になすらん」
「畠山 狐の皮の 腰当てに ばけの程こそ あらはれにけれ」
畠山が敵を育成するための種を蒔いてしまい、そのせいで日本は味噌のようにぐちゃぐちゃに乱れてしまったというのです。また、畠山は平素から狐の皮でできた腰当てを付けていたことから、狐にかけて「化けの皮が剥がれた」と揶揄しています。
こんな歌が流行するほどに畠山の評判が落ちたので、国清は仮病を使って引き籠もっていましたが、8月4日、義詮への挨拶もせず密かに京を抜け出し、関東へと戻っていきました。将軍の許可を得ず勝手に帰国するとは、反逆とみなされても仕方のない行動です。
領国の伊豆か、はたまた鎌倉公方の基氏が待つ鎌倉か、いずれに帰るにしても三河国を通る必要があります。三河といえば仁木義長の領国の一つです。義長自身は伊勢にいるとはいえ、三河には義長の味方が多く、国清が無事に通れるとは思えません。事実、三河守護代の西郷頼音(さいごうよりね)が500騎で矢作川沿い(愛知県岡崎市)に待ち構えているとの情報が入り、国清は中山道を選ぼうか、はたまた京に引き返そうかと考えあぐねてしまいます。
そうこうして時間が過ぎるうちに、尾張国の小川中務(おがわなかつかさ:?~1360)までもが仁木方について挙兵してしまいます。国清は前後を敵に囲まれて、全く動けなくなってしまいました。仁木も畠山も幕府内で敵を増やして出奔した挙句、尾張・三河で仁木と畠山の戦が勃発してしまったという格好です。
この頃、既に南朝方に寝返った有力守護・山名時氏もまた、仁木・畠山の失脚を知って勢いづきます。時氏は因幡・美作で挙兵し、北朝方・赤松則祐らの城を次々と陥落させ、あっという間に南朝方は勢いを取り戻したのでした。