30年日本史00538【鎌倉初期】平泉への逃避行
文治2(1186)年5月12日。地元民の密告により、源行家が和泉国日根郡近木郷(大阪府貝塚市)に潜伏していたことが発覚しました。時政は甥の北条時定(ほうじょうときさだ:1145~1193)を派遣してこれを捕らえ、行家は山城国赤井河原(京都市伏見区)にて斬首されました。
さらに7月25日には、大物浦の遭難で義経とはぐれていた伊勢三郎義盛が捕らえられ斬首されました。
閏7月10日には、義経の侍童が捕らえられ、義経が比叡山に潜伏していたことが明らかになりました。時政は比叡山の捜索を命じますが、義経の姿は見当たりません。
9月20日には、義経の側近である堀景光が捕らえられ、義経が興福寺に潜伏していたことが判明しました。時政は興福寺の捜索を命じますが、義経は間一髪で伊賀に逃亡しており、捕らえることはできませんでした。堀景光は斬られたのか助かったのか、記録されておらず明らかではありません。
翌9月21日には、義経とはぐれていた佐藤忠信が捕らえられそうになり、自害しています。
徐々に追い詰められ、手勢を失っていた義経は、遂に奥州行きを決意しました。奥州平泉といえば、義経が15歳から21歳までの6年間を過ごした地です。奥州の覇者・藤原秀衡であれば、義経を匿ってくれるはずだと考えたのです。
義経と従者の弁慶たちは山伏に姿を変え、重衡によって焼き討ちされた東大寺の再建のための勧進(寄付を募ること)をしていると偽って、北陸道から平泉を目指しました。
近江、越前と旅は順調に進みましたが、難しいのは安宅の関(あたかのせき:石川県小松市)です。義経たちの手配書は既に全国に回っており、関守による審査を通過できるかどうかが心配です。かといって、関を回避して山を越えようとすると、難所である上、万一見つかればより一層厳しい詮議を受けることとなります。義経たちは迷った末、あくまでも山伏を装って関所を越えることとしました。
この安宅の関の手前に、尼御前岬(石川県加賀市)という激しい断崖があります。義経に同行していた従女の尼御前(あまごぜん)が安宅の関の厳しさを知り、
「私がいると足手まといになる」
と言ってこの岬から身を投げてしまったという伝説がある場所です。岬には現在、尼御前の像が建てられています。