30年日本史00034【旧石器】組織的犯行の可能性
藤村が捏造した「日本最古」の記録を順に挙げると
・昭和56(1981)年: 座散乱木遺跡
・昭和59(1984)年: 馬場壇A遺跡
・平成5(1993)年: 高森遺跡
・平成11(1999)年: 上高森遺跡
となりますが、この馬場壇Aと高森の間には大きな溝があります。
座散乱木と馬場壇Aでの捏造は、岡村道雄の提唱した型式理論に一致するもので、極めて自然で学説に裏打ちされた捏造でした。その一方で、高森と上高森は極めて不自然で、学者は首をかしげざるを得ないものでした。もし高森と上高森の捏造がなければ、座散乱木と馬場壇Aは発覚しなかったかもしれないと言われているほどです。
つまり、座散乱木と馬場壇Aでの捏造は、ハイレベルな知見を持った共犯者の存在が垣間見える一方、高森と上高森での捏造は、学者不在のまま発掘屋たちが独断で行った荒削りな犯行と見られるのです。
座散乱木と馬場壇Aで考古学者の協力があったとすれば、真っ先に疑われるのは岡村道雄でしょう。この2遺跡での発掘成果は、岡村の型式理論にぴったり一致するからです。
その岡村は、東北歴史資料館の研究員として座散乱木と馬場壇Aの発掘に関わった後、昭和62(1987)年に文化庁調査官に任命され、宮城を離れることとなりました。この頃から、藤村の捏造はその様相を大きく変えることとなりました。「型式に関係なく縄文時代など時代が異なる旧石器を古い地層に埋める」という粗雑なものになって行ったのです。
つまり、藤村は岡村の指示で捏造を行っていたが、岡村の手が離れ、鎌田の配下に入ったことで暴走し、捏造ぶりがひどくなって来た……という仮説が立てられるわけです。
そうすると、岡村道雄の師で藤村の発見を後押しした芹沢長介もまた疑わしく思えてきます。芹沢が「型式は層位に優先する」というドグマを提唱しなければ、岡村の仮説は葬られていたかもしれないわけですから。
さらに、疑惑検証のための特別委員会委員長であった戸沢充則もまた疑わしいとされる人物です。戸沢は藤村への聞き取りを単独で行い、以前から藤村一派を疑っていた小田静夫、竹岡俊樹らをチームに加えようとしませんでした。この姿勢が、事件を藤村の単独犯として矮小化し、葬り去ろうとしたものとして批判されているのです。
果たして捏造事件は藤村一人によるものだったのか。鎌田俊昭・梶原洋ら東北旧石器文化研究所のメンバーは共犯だったのか。さらに藤沼邦彦・岡村道雄ら座散乱木遺跡発掘メンバーも含めて共犯だったのか。それに加えて芹沢長介・戸沢充則らまでも藤村の犯行を見て見ぬふりをしていたのか。それは未だによく分かっていません。
いずれにせよ、捏造によって学界全体が踊らされるとは、考古学という学問がいかにいい加減なものだったかが露呈したと言っていいでしょう。