30年日本史01047【南北朝中期】武蔵野合戦 尊氏辛勝
尊氏の命、もはやここまでかと思われましたが、やはり天の助けがありました。尊氏の側近らがようやく追い付いてきて、新田軍に斬りかかっていったのです。新田義宗は悔しがりながらも、追跡を諦めます。
尊氏は辛くも荒川の向こう岸に渡ることができました。その後、なおも新田義興・脇屋義治が尊氏を追跡します。
ここで笑い話のような展開となります。義興・義治は尊氏をどこまでも追い詰めるつもりで追跡していたのですが、そこかしこに尊氏軍から降伏してきた武士たちがいて、馬から降りて義興・義治に挨拶してくるのです。律儀な義興・義治はこの挨拶にわざわざ馬を止めて対応してしまい、そのうちに尊氏を取り逃がしてしまいました。
その義興・義治の前に、尊氏軍の主力である仁木頼章・義長らが立ちはだかりました。義興・義治は魚鱗の構えをとって敵中を突破しようとしますが、仁木義長は
「小勢だからといって侮るな。一ヶ所に馬を寄せて、敵が攻めかかっても安易に相手をせず、目を配って大将をこそ狙え」
と冷静に指示しました。油断のない指揮官です。
義興・義治は敵の中を駆け破ろうとしますが、敵は隙間なく馬を備えているため、なかなか突破できません。そのうちに2人は気力が萎え、逃げていきました。
戦場から離脱した義興・義治が改めて自軍の状況を確認してみると、その被害は甚大でした。大将たる2人もかなりの傷を負っており、刀もノコギリのように欠けていました。また、義宗ともはぐれてしまい、どこにいるのか分かりません。実は義宗は笛吹峠(埼玉県鳩山町・嵐山町の境)の方向へ逃げていったのですが、義興・義治陣営はその情報もつかんでいませんでした。
義興・義治は
「もはや上野へ帰ることも難しいだろう。落ち延びるべき場所もない。討ち死にするはずの命だったのだから、この際鎌倉へ討ち入って、足利左馬頭(基氏)に会って死にたいものだ」
と述べました。
前述のとおり、史実では空っぽ状態となった鎌倉を新田軍は簡単に手中に収め、その後で小手指原の戦いが起こったわけですが、太平記では小手指原の戦い終了後も未だ鎌倉は陥落しておらず、足利の手にあるようです。
義興・義治が鎌倉に向かうと、その途上、関戸(東京都多摩市)で別の軍勢5、6千騎と出会いました。さては敵かと思いきや、これは石塔・三浦の軍勢でした。味方だったのです。