30年日本史00544【鎌倉初期】津軽・蝦夷の義経伝説
さて、国民的人気のある義経のことですから、
「衣川で泰衡ごときにやられるわけがない。衣川で殺されたのは影武者であって、義経は蝦夷へと逃亡したのだ」
といった伝説が起こり、人々がこれを語り継いでいきます。ここからはその伝説を紹介していきましょう。
「判官稲荷神社縁起」によると、追い詰められた義経が秀衡の遺書を開くと、そこには蝦夷地への行き方が書いてあったといいます。それに従って、義経は宮古(岩手県宮古市)から海路で八戸(青森県八戸市)へと向かいました。
宮古には、判官館、法冠神社、判官宿、判官稲荷、弁慶腰掛岩といった義経ゆかりの史跡がある上、黒森山は「九郎森山」が訛ったものとの言い伝えもあります。
八戸には、義経とその先祖の新羅三郎を祀る新羅神社や、義経主従が書いたという大般若経150巻が納められている小田八幡宮があります。
さらに八戸では、「義経は地元の豪族の佐藤某の娘を孕ませ、鶴姫(つるひめ)が産まれた」との伝説があります。その鶴姫は美しく成長し、阿部七郎(あべしちろう)と禁断の恋に落ちます。阿部家と佐藤家は犬猿の仲で、とても結ばれることは期待できなかったため、二人は駆け落ちしますが、夏泊半島に追い詰められ、心中を遂げました。その心中の地は現在、1万数千本の椿に覆われ「椿山」と呼ばれています。なぜか赤椿のみが咲くそうで、阿部七郎と鶴姫の血潮で染まったためと伝えられています。
さて、八戸を出た義経は、津軽半島の先端の三厩(みんまや:青森県外ヶ浜町)から北海道の福山(北海道松前町)へと逃亡します。この三厩という地名も、義経が三頭の馬を残したことから付いた名だといわれていますし、近くに義経を祀る義経寺があります。
この義経寺を訪れた太宰治は、紀行小説「津軽」の中で、青森に義経伝説がある理由について次のように述べています。
「きっと、鎌倉時代によそから流れて来た不良青年の二人組が、何を隠そうそれがしは九郎判官、してまたこれなる髯男は武蔵坊弁慶、一夜の宿をたのむぞ、なんて言って、田舎娘をたぶらかして歩いたのに違いない」
案外、伝説というのはそんなものかもしれませんね。
義経はさらに福山から平取(北海道平取町)へと移動したらしく、福山には義経山欣求院、平取には義経神社があります。
さて、平取から先には特に義経の伝説地がありませんが、ここからなんと「大陸に渡ってチンギスハンになった」という伝承があるので、それも紹介しておきましょう。