30年日本史00908【南北朝最初期】鯖江の戦い
金ヶ崎城が陥落した後、新田義貞・脇屋義助兄弟はどうにかして反撃を開始しようと兵を集め始めました。(もう遅い気もしますが……)
新田軍が士気の高い兵を3千騎集めたところで、これを知った京の尊氏は斯波高経に6千騎を付けて派遣します。
斯波軍は杣山城になかなか近づけず、新田軍と大塩(福井県南越前町)で小競り合いを続けました。斯波軍はその後、一旦は6千騎で越前国府(福井県越前市)に立て籠もりましたが、
「皆で1ヶ所に籠もっていると、兵糧が足りなくなるだろう」
といって、3千騎を国府に残し、残り3千騎を国内の城30ヶ所に分散配置しました。そして越前国中あちこちで戦いが起こるようになりました。
延元2/建武4(1337)年2月になって、雪が消えました。旧暦2月は現在でいうところの4月頃でしょう。脇屋義助は
「やっと戦いやすい時期になった。徐々に越前国府の近くに攻め寄せて行くためにも、途中に城を構える必要がある。どこか良い場所はないか」
と述べ、150騎ばかりで鯖江(福井県鯖江市)へと出かけました。
これを把握した足利軍は、細川出羽守(ほそかわでわのかみ)率いる500騎で越前国府を出て鯖江に押し寄せ、これを取り囲みました。ちなみに細川出羽守には「出羽守」という役職名のほかに何らかの実名があるはずですが、不明なのでやむなく出羽守と呼ぶほかありません。
義助ほどの大将格の者が僅かな手勢で出かけたわけですから、足利軍にとっては大きなチャンスです。しかしこのとき足利軍は新田義貞・脇屋義助兄弟は戦死したと思い込んでいましたから、敵将が大物であることは認識せずに戦っていたことでしょう。
三方を囲まれた脇屋義助は、もはや逃れられないと覚悟を決め、決死の覚悟で激しく矢を射かけました。この勢いのすさまじさに細川出羽守は浅水川(あそうずがわ)の浅瀬を渡って、向こう岸へと逃げていきました。
脇屋勢の兵たちはこの勢いで川を渡って細川軍を追撃しようとしましたが、義助は慎重な態度で兵たちを諭しました。
「小勢が大敵に勝つのは、一時のことだ。もし本格的な戦闘になったら、逆に敵が勢いづくだろう。追撃はやめて、むしろ味方を呼ぼう」
と言って、周囲の民家に火を掛けるよう命じたのです。民家に放火するとはひどい話ですが、この時代、合戦が起こっていることを遠方の味方に知らせるためによくある手段でした。
火を見て鯖江で合戦があることを知った新田方は、次々と脇屋勢を助けようと兵を繰り出してきました。脇屋義助はなかなかの戦上手のようですね。