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30年日本史01083【南北朝中期】直冬の没落、菊池の飛躍

菊池一族の最盛期が近づいてきましたね。本稿を書いているうちに私はすっかり菊池ファンになってしまいましたが、熊本県菊池市に足を伸ばすことがまだできていません。早く行ってみたいものです。

 正平10/文和4(1355)年は、畿内と東国では特段大きな事件もなく過ぎていきました。特筆すべきことといえば、8月に北朝方・小笠原貞宗が南朝方・宗良親王と桔梗ヶ原(長野県塩尻市)で戦って勝利したことくらいでしょうか。
 この年に大きく情勢が動いたのは、九州です。
 第六次京都合戦に敗北して逃亡した直冬は、その後多くの家臣に離反され、没落していきました。この頃から直冬の発給した文書は著しく減った上、その後何らかの戦闘に参加した記録もありません。それどころか死去した年についてすら文献ごとに大きくズレがあり、いつどのように死亡したのかも不明です。誰にも注目されることなく、ひっそりと死んでいったのでしょう。
 直冬がいなくなった九州では、南朝方の懐良親王と菊池武光が大きくその勢力を拡大していました。
 8月17日。懐良親王と菊池一族は、これまで長らく拠点としてきた菊池城を出て、9月1日に肥前国府(佐賀県佐賀市)に入りました。そこを拠点として、武光の兄・菊池武澄(きくちたけずみ:?~1356)が北朝方・千葉胤泰(ちばたねやす)の居城・小城城(おぎじょう:佐賀県小城市)を襲撃し、これを陥落させました。大宰府の少弐頼尚は既に味方になっていますから、北九州内の残る敵は、豊後(大分県)を拠点とする大友氏と、博多を拠点とする一色氏だけです。
 懐良親王らは10月末には豊後国府(大分県大分市)に入り、幕府方の大友氏時(おおともうじとき:?~1368)を破りました。大友氏時は降伏し、これ以降は南朝方として行動します。
 さらに懐良親王が博多に入ると、一色範氏・直氏(なおうじ)父子は敵わぬとみて長門へと逃れました。これで南朝勢力は北九州をほぼ統一したこととなります。
 本州へ逃れた一色氏は、博多を回復しようと再び兵を集めます。麻生宗光(あそうむねみつ)らの協力を得て、正平11/延文元(1356)年10月13日に麻生山(あそうやま:山口県美祢市)に陣を布きます。
 両軍は10月22日に激突しました。麻生山の戦いです。
 両者は40日間に渡って戦い続けますが、一色方から裏切りが出て総崩れとなります。一色範氏・直氏父子は再び長門への逃亡を余儀なくされました。
 懐良親王を擁立する菊池氏が、かくも強大な力を得たとは驚きです。この後、北朝方が菊池氏に対し、乾坤一擲の大作戦「筑後川の戦い」を仕掛けることとなるのですが、その話に進む前に、正平11/延文元(1356)年の出来事を一通り紹介してしまいましょう。

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