30年日本史00981【南北朝初期】吉野炎上*
楠木正行を倒し、勢いに乗った高師直はそのまま正平3/貞和4(1348)年1月14日、南朝方の町である東条(大阪府富田林市)を焼き払いました。師直軍はそのまま吉野へと押し寄せようとします。
四条隆資は急いで御所に参上して、
「昨日正行が討たれました。明日には師直が吉野へ襲ってくるようです。この吉野山には十分な兵がおりません。今夜急いで賀名生へお移りになるのがよいでしょう」
と言上しました。
賀名生(あのう)とは現在の奈良県五條市にある小さな集落で、元々は「穴生(あのう)」と書いたのですが、後村上天皇が吉野からこの地に越してきた際に、南朝による統一を願って叶名生(かのう)と改め、さらに正平6/観応2(1351)年に「賀名生(かのう)」に改めたといわれています。明治になってから、読みだけを「あのう」に戻したようです。
なので、この時点で四条隆資のセリフを「賀名生」と書くのは若干おかしいのですが、太平記にそう書いてあるのでとりあえずそのまま話を進めます。
さて、南朝の一行は三種の神器を伴って急いで吉野を脱出し、慣れない山道を進んで賀名生へと向かいました。勝手神社の前を通るとき、後村上天皇は涙ながらに
「憑(たの)むかひ 無きにつけても 誓ひてし 勝手の神の 名こそ惜しけれ」
と詠み、頼みの武将がいない中で勝利の神を置いて逃げるしかない我が身を嘆きました。
そして1月28日、師直は3万騎を率いて吉野山に押し寄せ、鬨の声を挙げました。敵が逃亡済みであることに気づくと、師直は皇居と公卿・殿上人の宿所に放火し、鳥居から門から神社から、次々と焼き払ってしまいました。太平記は、
「このようなありがたい社殿や仏閣を焼き払ったことで、師直は天の怒りを受けてたちまち滅びるだろうと人々は思った」
と記しています。
1月30日、後村上天皇は賀名生に到着し、ここに御所を築きました。時には雨漏りに悩まされ、さらには大雪に凍えながら、ひどく粗末な暮らしを強いられていたようです。
一般的に南北朝時代というと、南朝の首都は吉野と思われがちですが、実は吉野で暮らしていた年月はひどく短いのです。南朝の天皇は賀名生に滞在し、さらにここも安全でなくなると、あるときは河内の金剛寺や観心寺(いずれも大阪府河内長野市)に、あるときは摂津の住吉(大阪市住吉区)に、またあるときは大和の栄山寺(奈良県五條市)に、転々としながら京の奪還を心待ちにしていたのでした。
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