30年日本史00020【旧石器】高森遺跡の発見
昭和63(1988)年11月。更なる大発見が続きます。高森(たかもり)遺跡(宮城県栗原市)で、30万年前の地層から石器が発見されたのです。つまり、30万年前にも日本列島に人類がいたということになります。
平成元(1989)年。計器会社に勤める藤村は、仕事の都合で福島県へ異動することとなり、発掘にあまり参加できなくなりました。それ以降、藤村が宮城に戻ってくる平成4(1992)年までの間は、宮城県内で前期旧石器が出土することはありませんでした。
藤村が宮城へ帰任した後の平成5(1993)年5月。同じく高森遺跡で、50万年前の地層から石器が発見されました。帰任したばかりの藤村が発見したものです。
小田静夫は、
「50万年前の石器にしてはきれいすぎる。古い時代の地層が流されて、再度堆積した可能性はないか」
と指摘しました。1万年前くらいの石器が、たまたま再度堆積した50万年前の地層の中にうずもれてしまったのではないか、ということです。しかし、考古学界の人々は小田に辛辣な批判を浴びせました。
「小田は成果が上がってないから藤村たちをねたんでいるのだ」
と言うのです。これを機に、小田は旧石器が嫌になり、専門を離島研究に切り替えてしまいました。
高森遺跡の付近は観光客があふれるようになり、「清酒高森原人」「原人饅頭」「原人ラーメン」などが売り出されました。
この高森遺跡の記者発表をめぐって、新たな問題が巻き起こります。宮城県教育委員会は、高森遺跡での新発見を記者発表するに当たって、
「発掘は一部アマチュアの協力を得て行われた」
と表現しました。この表現が、アマチュアの鎌田、藤村らを怒らせてしまいます。協力とは何だ、発掘のほとんどは我々アマチュアが行ったではないか、というのです。
岩宿遺跡の発見における杉原荘介と相澤忠洋の対立とそっくりな構図ですね。よくある話なのでしょう。
さらに、その後の高森遺跡の発掘方針をめぐっても、石器文化談話会内部で激しい対立が起こりました。藤沼邦彦、岡村道雄ら大学や研究機関に所属する研究者たちが慎重な学術的議論を求めたのに対し、アマチュアの鎌田俊昭、藤村新一らは反発したのです。
そこで、鎌田、藤村らは石器文化談話会を飛び出し、独自の法人を設立することとしました。研究者と袂を分かった藤村は、ますます暴走していきます。