30年日本史00754【鎌倉末期】護良親王の逃避行 餅つかぬ里
後醍醐天皇に続いて楠木正成や桜山茲俊の動向を見て来ましたが、次は後醍醐天皇の三男・尊雲法親王(後の護良親王)の動向を見ていきましょう。尊雲法親王は前述のとおり、連日延暦寺の僧兵を集めて軍事演習を行ったという武闘派の人物です。
元弘元/元徳3(1331)年9月。笠置山が陥落して後醍醐天皇方の武士たちが次々と捕縛されていく中、尊雲法親王は般若寺(奈良市)に逃れました。このとき、追っ手が般若寺にまで捜索に及んで来たため、尊雲法親王は慌てて身を隠す場所を探し、蔵へと入りました。
蔵の中には、大般若経の入った唐櫃が三つありました。三つのうち一つだけ、蓋が開いて経典が半分以上取り出されているものがあったため、尊雲法親王はその中に隠れます。
そこに捜索にやって来た幕府方の兵たちは、蓋が開いている唐櫃には目もくれず、残る2つの唐櫃を開けて中を捜索し始めました。「蓋が開いているものは見るまでもない」と判断してしまったのでしょう。
捜索を終えた兵たちは諦めて帰っていきました。兵の一人が帰りがけに
「大塔宮は居らせ給ひで、大唐の玄奘三蔵こそおはしましけれ」
と駄洒落を言ったと「太平記」は伝えています。尊雲法親王の名は「大塔宮(だいとうのみや)」というのですが、その大塔宮は見つからず、代わりに大唐(だいとう:中国のこと)の三蔵法師こと玄奘(げんじょう:602~664)がインドから伝えた経典を見つけたということでしょう。なかなか教養のある兵がいたものです。
さらに般若寺から逃れた尊雲法親王は幕府方から身を隠すため、10名足らずの従者を従えて南下します。10月29日には紀伊国鮎川(和歌山県田辺市鮎川)まで逃れて来ました。
鮎川ではちょうど正月の準備のため村人たちが餅をついていました。空腹に苦しんでいた尊雲法親王一行は村人にその餅を所望しますが、この一行が皇子だとは知らない村人たちはひどく冷たく、一切渡してくれませんでした。一行は空しく鮎川を後にしました。
その後しばらくして、鮎川を通ったのが尊雲法親王の一行であったことが伝わって来ました。村人たちはひどく反省し、
「二度と餅はつかない」
と誓い、許しを乞うたといいます。この鮎川はやがて「大塔宮が通った」という理由から「大塔村(おおとうむら)」と名付けられ、平成17(2015)年に田辺市に合併吸収されるまで大塔宮尊雲法親王の名を冠する村でした。餅をあげなかったことを悔やみ続けたのですね。
鮎川で餅が解禁されたのは、なんと大塔宮の没後600年を記念する「大塔宮600年祭」が行われた昭和10(1935)年のことでした。京都の大覚寺で催されたこのイベントに、鮎川の人たちは粟餅600個を供えて先祖の不敬を詫びました。
これをもってようやく鮎川で餅が食べられるようになったそうです。