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30年日本史01075【南北朝中期】神南の戦い 義詮危うし
2代将軍義詮はどうも影が薄く、凡将とみなされているようです。太平記の中にも目立った活躍シーンがありません。重臣による反逆が相次ぐ中で見事幕府を守ったと評価することもできますし、重臣たちの度重なる裏切りを止められなかった愚かな将軍とみることもできますし、なかなか評価が難しい人物です。
義詮の陣が手薄になっているのを見た山名師義は大いに喜び、
「我々がこの乱を起こしたのは将軍を滅ぼしたいと思ったためではなく、ただ道誉の無礼な振る舞いを憎く思ったためだ。あの四つ目結いの旗は道誉のものであろう。これは天の与えた幸いだ。他の敵には目を向けず、あの首を取って私に見せよ」
と命令し、6千騎の兵は我先にと進んで義詮の陣へ迫りました。どうやら義詮の首を取りたいというよりも、道誉を殺したいようです。そういえば、山名父子が幕府に反旗を翻したのはそもそも道誉のせいでしたね。
敵がすぐそこまで迫る中、赤松則祐が兵たちに
「天下の勝負はこの一戦で決まるぞ。今こそ命を惜しまず、名将の御前でみごとに討ち死にして、後代へ名を残せ」
と命令すると、7人の武士たちが次々と義詮の周りに集まってきました。
赤松勢7人は相当な手練れの者たちで、襲ってくる山名勢30人を斬って捨てたので、さすがの山名勢も恐れをなして退いていきます。そこに細川勢が援軍にやってきたので、山名勢は気力を失って逃走していきました。赤松則祐はこの功績によって義詮の命の恩人とされ、後の室町幕府で重用されていくこととなります。かつては護良親王の親衛隊だったのが、いつの間にか室町将軍の親衛隊になっていくのですね。
逆に勢いづいた赤松勢は、山名勢を追跡して攻撃します。
その中でも内海範秀(うつみのりひで)という武士は、山名勢の追跡中に太刀が折れてしまい、馬も疲れて動かなくなってしまいました。そこにたまたま通りかかった敵の騎馬武者を見た内海は、その馬に飛び乗って敵の背中につかまりました。敵は内海を味方と勘違いして
「どなたかな。傷を受けているなら私の腰に強く抱きつきなされ。お助けしよう」
と言ってくれたのですが、内海は
「ありがとう」
と言い終わらないうちに刀で敵の首を落とし、そのままその馬に乗って山名勢を追跡していきました。人の好いやつが簡単に殺されてしまったという何とも気の毒な話ですが、これが戦場のリアルというものでしょう。
遂に山名勢は敗れ、敗走していきます。神南の戦いは赤松則祐らの活躍により、ギリギリのところで義詮の辛勝となりました。