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30年日本史00903【南北朝最初期】瓜連城陥落

 ここで東国の動向に目を転じてみましょう。復習のために小高城の戦いの稿(00867回)に記載した両陣営の武将たちの名を再掲しておきます。
【南朝方】北畠顕家、楠木正家(瓜連城)、那珂通辰(那珂城)、中村広重(熊野堂城)、広橋経泰(霊山城)、標葉清兼(標葉荘)、小田治久(小田城)、大掾高幹(水戸城)
【北朝方】斯波家長(斯波館)、佐竹貞義(金砂城)、相馬光胤(小高城)
 延元元/建武3(1336)年4月には北畠顕家が再び東国に送り込まれ、5月24日に顕家は敵の本拠である小高城を攻め落としたのでしたね。顕家の活躍により、南朝方が一挙に有利となったわけです。
 ところがその後、北朝方の佐竹貞義の子、佐竹義篤(よしあつ:1311~1362)と小瀬義春(おせよしはる)の兄弟が京から帰国し、情勢は一変します。ちなみに小瀬義春も貞義の子ですが、小瀬(おせ:茨城県常陸大宮市)を領地としたので苗字が異なります。
 佐竹義篤は顕家に対抗するため、武生城(たきゅうじょう:茨城県常陸太田市)に立て籠もりました。そこに北朝方の武将が次々と集まり、8月22日には楠木正家の籠もる瓜連城(茨城県那珂市)を攻撃するなど、南朝方が優勢になってきました。
 12月2日、佐竹義篤のもとに、
「南朝方の那珂通辰が浅川沿いに北上し、金砂城を攻撃するらしい」
との情報が入りました。
 これを聞いた義篤は、金砂城に籠もる父・貞義に援軍を派遣するのかと思いきや、なんとこの機に乗じて敵の本陣に攻め出る計画を立てます。自身の武生城の軍勢と、父の金砂城の軍勢とを合流させて、那珂勢に悟られないよう山田川沿いに南下し、こっそりと楠木正家の籠もる瓜連城に近づいたのです。
 貞義・義篤父子は瓜連城を背後から突き、12月11日、見事これを落城させました。楠木正家は戦死したのか、はたまた脱出したのかは伝わっていません。いずれにせよ、楠木正家はここで歴史の表舞台から姿を消します。
 驚いたのは那珂通辰です。せっかく金砂城に攻め寄せたのに、そこはもぬけの空だった上に、背後の瓜連城が敵の手に渡っており、完全に敵中に孤立してしまったわけです。
 敵に包囲された那珂通辰は、敵に斬られたとも、勝楽寺(茨城県常陸太田市)で一族43人もろとも自刃したとも伝わります。
 こうして南朝方として常陸国に大きな影響力を誇示した那珂氏は滅亡し、北朝方が一挙に有利になりました。ここから北畠顕家が再び南朝方を盛り返そうと一戦構えるのですが、それはしばらく後にお話しすることになりそうです。

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