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30年日本史01153【南北朝後期】世良田義政の乱と山名父子復帰

世良田氏が登場したので、ついつい大分先のことまで触れてしまいました。まだ徳川家康の話をするべき時期ではないんですがね。

 正平19/貞治3(1364)年7月28日。世良田義政(せらだよしまさ:?~1364)という武将が南朝への内通を疑われ、切腹に追い込まれるという事件が起こりました。実に唐突に起こった事件であり、内通が事実かどうかも定かではありません。
 この世良田義政というのは、上野国新田荘世良田郷(現在の群馬県太田市世良田町)を拠点とする武士で、この世良田郷こそが徳川家康のルーツだといわれています。
 徳川家康は天下人となるに際して、自らを源氏の出だと詐称しました。その詐称のために
・自らの7代祖先は松平親氏(まつだいらちかうじ)といって、上野国を出奔して松平郷(愛知県豊田市松平町)に土着した武士である。
・その松平親氏の祖父は得川親季(とくがわちかすえ)といって、上野国新田荘得川荘(群馬県太田市徳川町)に住んでいた。
・その得川親季の5代祖先は世良田頼氏(せらだよりうじ)といって、上野国新田荘世良田郷に住んでいた。
・その世良田頼氏の祖父が新田義重で、その新田義重の祖父が源義家である。
と主張し、自らが清和源氏の血を引いているという系図を捏造したのです。実際には世良田家と徳川家には何らの関係もないと考えられていますが、世良田家は後付けながら徳川家の祖先となったことから、今や世良田町には「世良田東照宮」という家康を祀る神社もあるほどです。そして今回反乱を起こした世良田義政は新田家の分家・岩松氏の出身で、世良田頼氏の兄・頼有(よりあり)の養子となって世良田義政と名乗ったようです。
 さて、世良田の話はこのくらいにして、同年9月の山名父子の北朝帰順を取り上げましょう。山名父子が幕府を離反したのが正平7/観応3(1352)年8月のことですから、あれから早11年が経過しました。その間に京は二度も南朝方に占領されてしまいました。
 しかし山名父子は幕府に
「我々の不忠は、将軍に歯向かおうとしたのではなく、ただ道誉に立腹したためです。もし罪をお許しくださり、領地を安堵いただけるならば、今からでもお味方に参上します」
と申し入れてきました。大内弘世が許されるなら自分たちも許されるはずだ、と思ったのでしょう。
 義詮がこれを認めたため、山名は5ヶ国の守護職を安堵されたまま幕府方に戻ってきました。世の人はこの厚遇に呆れ果て、
「所領が欲しければ一旦裏切ればよいということか」
などと噂し合ったそうです。
 これまで幕府方から次々と裏切りが出ていましたが、今や次々と帰順するようになりました。この勢いで北朝は味方を増やせるのでしょうか。

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