洋画を日本語字幕なしで観たい理由;フレンチ・ディスパッチの画家と看守の会話を例として
この記事は、掲題映画の「電気椅子で死にたいと懇願する画家を女性看守が説得(説教)する場面」を用いて、本作を字幕なしで視聴する効用について解説していきます。後半では補足として解説を綴ります。
途中で離脱してしまった人も、面白いと感じたら高評価やコメントを残していってくれると嬉しいです。笑。
= = =
▼事例:画家と看守の会話を用いたケーススタディ:
ある日、スランプに陥った画家は自殺を図るも自分では死ねず、刑務所の電気椅子に自ら座って、後から処刑室に来た看守にスイッチを押させようとします。
しかし画家のミューズでもある看守はスイッチを押さず、彼を救うために説教を始めるのでした。
ここでカメラは画家の主観になり、固定された目線で部屋の向こうから近寄ってくる看守の一挙手一投足を見守ることになります。
彼女は部屋の向こう側、少し離れた位置から歩み寄りながら、ずっとフランス語で喋り続けます。このとき、彼女のセリフに合わせて短い英訳文が画面中央にぴょこぴょこ表示されます。普通、字幕は話しているペースに合わせて消えていくのですが、今回は消えずに次々と積み上がって画面に表示された文字の面積はどんどん増えていき、まるで雑誌の誌面のようになります。
私のようにフランス語が話せない人はその英語字幕を追うことになるのですが、さんざんフランス語で喋っていたのに、最後の最後に「で、お前はどう思うん?」って問い詰めるセリフだけ急に英語になって、それまで画面に残っていた英語字幕が一斉にパッと消えます。
雑誌から映画(写真)になった瞬間でした。
そして、このとき私はずっと文字を追っていたので気づかなかったのですが、いつの間にか、彼女はものすごく近くまで寄って来ていたのです。
それで、画面には字幕はなくなり、美しい彼女の顔や瞳だけがクローズアップでスクリーンに大きく広がります。それまで脳の中で「言語」を操る部分に血液と酸素を集中して送っていたのに、いきなり「視覚」と「聴覚」を司る部分に意識が移動して、文字通り脳内の電流が活発に流れる場所が切り替わるのです。それは不意に女性に距離を詰められて間近でまじまじと見つめられてビックリしたような感覚さえもしました。
画家はなんとか言葉を絞り出します。
すると彼女は今度は一歩ずつ後退しながら、またフランス語に戻って、先ほどとは違い画家を優しく励ます言葉をかけるのです。画家(観客)の心のドアを強く押したり引いたりする様子を文字通り近寄ったり離れたりする動きで見せたり、仏語と英語を交えたりしながら大いに揺さぶりを掛けてくる、本作でも屈指の名シーンだと思います。
この一連のシーンは長さにすると1分程度ですが、ずっと緊張が続くので体感時間はもっと長くなります。そしてシーン全体で彼女から耳を通して入ってくる情報は英語での決め台詞「What's your problem?」だけで、あとは全部フランス語の字幕を読んで脳に入ってきた情報なので、耳にはまださっきの言葉の残響が残ってる気がして、まるであの瞬間だけ幻だったような、どこか夢見心地で軽く混乱した気分になります。
彼女が後退していく間、なんか優しい言葉をかけてくれてるなあ、と文字情報としては理解しながらも、耳では「あなたの問題は何?」という、この画家だけではなく、全人類が普遍的に抱くであろう共通の問題意識「私のライフ(生活;人生)で問題なのって何かしら」をずっと問いかけられ続けているような感覚になるのです。
ひゃーっ!
と言わんばかりに、憂鬱から我に返った画家は無言で慌てて電気椅子から逃げ出してアトリエへと退散します。
実は看守は説教を始める前に、まるで喝を入れるように一瞬だけ電気椅子のスイッチを入れて(!)火花が散っていたのですが、そんなことになってたまるかという感じです。
ここでの看守のメッセージはシンプルかつ強烈です。ウダウダ悩んでる暇があったら、お前は画家なんだから、とにかく描け。働け。それで答えは自分で見つけ出せ。
映画のテーマに鑑みると、これは看守から画家へだけではなく、同時に監督から全てのクリエイターへの叱咤激励でもあることが分かります。なんて力強く愛に溢れたメッセージなのでしょうか。
そして、この画家が経験した衝撃を、ほぼ追体験できるのが、日本語字幕に頼らずに観ていた観客なのです。
この一連のシーンをずっと日本語字幕を目で追っていた場合、フランス語と英語の部分でほとんど差分がなくなるので、一番顔が近づいた時に文字情報がパッと消えて、視覚情報と聴覚情報に意識がぐわんと揺さぶられる効果が弱まってしまうので、彼女に翻弄される感覚が味わえなくなります。
しかしオリジナルの映像と音声と、クセの強い位置に出てくる英語字幕だけで物語を味わっていた場合、アンダーソン監督のまさに映画マジックにかかってしまい、見事に画家に共感して、画家の心の動きのダイナミクスを味わえます。まさに感情移入。そして没入感。この擬似体験こそが本物のヤバイ映画的快楽だと私は思います。
今回は日本の映画館で鑑賞したので日本語字幕が出るのは止むなしですが、ぜひ自宅でパッケージソフトやストリーミングで字幕なしの状態で観たいと思わずにはいられませんでした。
読まないように気をつけていても、見慣れた文字が並んでいたら、人は読もうとしてしまうものです。そういうノイズがなくなったら、この映画体験は更に最高の極みに到達できそうな気がします。
本作は突然異国語を話すから面白いのです。日本語吹替でもフランス語の部分がフランス語のままになったら神対応かなと思いますけど、どうなりますかねー。判断が難しいです。日本語で話してるのに部分的に英語字幕が出る、というのもそれはそれで面白そうですけど。
▼補足(基礎):字幕版で観るデメリット:
●プロローグ
天まで届く建築を目論んだ人類に対して、神は罰を与え世界は異なる言語で分割されました。以降、人類は互いを理解することも一致団結して偉業を成し遂げることも半永久的に出来なくなりました。これが聖書に書かれたバベルの塔の伝説です。
そして言語の壁は今も世界中の映画ファンの前に君臨し続けています。特に日本のように自国語のみで義務教育も行政も立法も司法も経済も論壇も科学もマスコミも問題なくできてしまう国(世界共通言語である英語を全く必要としてこなかった国)では、一層その壁は厚くなります。
映画は連続写真と音声で物語を伝えるツールです。しかし言語の壁の向こう側の国ではオリジナル音声では伝わらない場合があります。そこで音声を再録音(吹替)するか、もしくは当該地域の言語字幕を加えることで、映画はロケール対応することになります。
●吹替版のメリットとデメリット
世界では吹替上映の方がやや優勢です。これは300年前の江戸時代から識字率が高かった日本と異なり、近代化しても庶民に読み書きが定着するまで時間が掛かった国が多いためです。字幕版の映画はただ文字が読めるだけでは不十分で、素速く読みつつ絵を見ながら文字の内容を理解できるほどの知性が必要であり、安定して暮らせる状態が長く続いた国家でようやく培われるような「勤勉な国民性」が大衆に醸成されていなければ受け入れられにくいハードなタスクなのです。
日本人が勤勉なのは遺伝子が優れているからではなく、ずっと2000年間も一つの国家が続いたことで人々が安心して暮らせたからです。これがヨーロッパやチャイナのように戦乱の世が続き50年に一回は国が滅んで王家が入れ替わるような地域に住んでいれば、一度革命が起きればそれまで自分が重ねてきた努力や築いてきた財産が一瞬で無駄になるリスクを抱えているので、なんなら他人を騙したり出し抜いたりしてでも、自分の命や生活を確保する力を身に付けることが重要になるので、じっくり腰を据えて勉学や就労に励むようなカルチャーが形成されません。だからこそヨーロッパの人達は自己主張が強いし、チャイナの人々は詐欺や誘拐や喧嘩が日常茶飯事だったりと民度が低いのです。一方で日本は幕府や政府が変わることがあっても、二千年間ずっと一貫して天皇家が国の酋長として治め続けてきました。こんな偉業を成し遂げた国は世界に類例を見ないですし、だからこそ日本は義務教育がしっかりして識字率が高く、エンタメである映画の字幕に全国民が難なく対応することができました。
配給側の視点に立てば、ロケール作業の負荷だけ見れば字幕版の方が安価に対応できる(吹替版は翻訳家に加えて複数人の声優を雇う経費が発生する)ので、今後は字幕版が海外でも優勢になる可能性はあると私は思います。
吹替版の強みは、視聴する立場の人も、吹き替える立場の人も楽であるということです。整理すると、大きく5つになると思います。
普段の日常生活と同じような視覚と聴覚だけで映画が鑑賞できる。
文字を読むという能動的な活動が(基本的には)発生しない。
声優の匙加減で早口にする(多くの情報を詰め込む)ことができる。
演技が上手い人なら感情をより豊かに込めることもできる。
複数人が同時に罵り合う場面にも対応することができる。
一方で吹替版には弱みもあります。
映像の口の動きと音声が一致しない時が多い。
元の俳優と声が似ていない声優になる場合がある。
元の俳優の声の演技(息づかい)を味わえない。
狭い部屋で録音することが多くなるため、元の映画にあった音響(屋外にいる感じとか、距離感とか、環境音や効果音など)が失われて作品の立体感や臨場感が失われてしまう事が多い。
また最近は減りましたが、2000年代から2010年代前半くらいまで日本の配給会社は実力よりも話題性を重視して人気の芸能人タレントを吹替版に起用して、声優の仕事を奪った上で、吹替版の品質を著しく下げてしまい、映画ファンの顰蹙を買うようなことが何度か起こり、当時を知る映画ファンの間では「吹替版は低品質である」という定評がついてしまったという経緯もあります。(最近ではSNSの炎上が大手広告企業より優ることもありステマやゴリ押しは減って、俳優をマネジメントする事務所も慎重に動くようになりましたが)
なお、こうしたデメリットを抱えてもなお、吹替版独特の味わいとか、吹替版だからこそ出せる雰囲気が好まれる事例もあります。有名な所では『コマンドー』はその最たる成功例でしょうし、今ほど翻訳警察が騒がなかった時期にはダチョウ倶楽部が持ちネタを披露する『おかしなおかしな訪問者』など良い意味で狂ってる吹替版の名作(迷作)が多くあり、視聴者には楽しい選択肢があったことは言及しておきたいと思います。
若い頃や幼少期にテレビで映画の放送を見て吹替版に慣れ親しんだ世代や、逆にティーンエイジャーのような若い世代では、吹替版を求める声も結構あったりします。現在の若者の吹替版指向に関しては学力低下と関連して論じられることもあったりしますが、科学的根拠には乏しく眉唾モノだと個人的には考えています。
しかしながら、吹替版のデメリットは全て「元の音声を捨てる」ことに起因するものなので、そこに価値を見出す観客は、字幕版を選ぶのが最も手っ取り早くて手堅い解決策になることは間違いないでしょう。
●字幕版の(メリットと)デメリット
字幕版の強みは、吹替版の弱みの真逆なので説明は省きます。先に書いたリストを全部自分の頭の中でひっくり返してください。笑。
逆に字幕版の弱みは、大きく4つあります。
字数が限られるので情報量が削られて意訳が多くなる。
文字が表示されることで見えにくくなる部分が生じる。
人間の脳は字を読んでいる間に絵を見ることができない。
暗闇や色彩の表現で妨げになることがある。
意訳や省略の是非については『誤訳の女王』こと戸田奈津子先生があらゆる意味で最も進んでおられ、かつ非常に有名ですので、ここでは多くを語りません。
私がここで指摘したいのは、字幕が存在すること自体の問題点です。反抗期の少年少女にありがちな「何が悪いってことじゃなくて、存在自体がウザイ」ってやつです。笑。
字幕を付けるということは、オリジナルの画作りになかった要素(異国の文字)が上書きされることになるので、当然フィルムメイカーの意匠や作家性から逸脱していくことになります。極論してしまうと、公共の施設に描かれた誰かの落書きと本質的には同じです。それがどんなに美しかったとしても、それがどんなに役立つものだったとしても、それがどんな社会的意義を持っていたとしても、落書きは落書きです。最初の設計図にはなかったものに変わりはありません。
●物理的な問題
そこに文字があることで、まず「物理的に邪魔」になります。文字の後ろ側にある人物や風景やテーブルの小物や書類などが著しく見づらくなります。
『フレンチ・ディスパッチ』を例に出すと、画家のパートの終わりに編集長と記者と経理係のやりとりが出てくる(経費精算の場面)のですが、その時画面の左側には記者が参考にした書籍(画家の伝記や画商の自伝など)が数冊ほど積み上げられています。しかし日本語字幕が出てくると邪魔になって本のタイトルが読みにくいです。
●スピードの問題
次に、文字があると「そこに意識を奪われるという点で集中の妨げ」になります。人間の脳は読み慣れた文字があると、つい読んでしまうものです。そして読んでいる瞬間は脳の言語中枢が働いているので、脳内の他の部分は一時的に休むことになります。
これは訓練すれば速くすることはできますが、文字を読んでいる瞬間は映像が注意して見られなくなることは防ぎようがなく、つまり映画鑑賞は観客の脳みそと映画のスピード対決になってきます。これは画面に情報を詰め込んだり展開を速くしたがる映画では観客にとって厳しい戦いになります。試しに『テネット』を日本語吹替版で観てください。驚くほど分かりやすさがアップしますから。ドラえもんとほぼ同じレベルになります。
ここでも『フレンチ・ディスパッチ』を例に出すと、本作はまずモノローグ形式で雑誌や編集長の紹介から始まります。ここで映像ではウェイター風の男が建物を登っていく様子がクレイアニメーション風に面白おかしく描かれるシーンから始まるのですが、常人が日本語字幕を完全に理解して読み進めながらでは、この映像的な面白さは味わえないと思われるスピード感です。
このため私は最初の数カットで本作の日本語字幕は真面目に読むことを放棄して、映像(オリジナル字幕を含む)と音声に集中することにしました。
●意匠的な問題
最後に「文字が演出面またはデザイン面での意匠を壊す」という点です。例えば、画面が真っ暗になって声だけ聴こえる瞬間があるとします。しかしここで字幕を表示するとその分明るくなってしまいます。少なくないホラー映画がこの被害を受けているでしょう。暗闇だから怖いのであって、灯りがついたら人はそれだけで安心してしまうからです。
シンプルに、文字で書かれていると人間は理解した気分になるので、それで不安が緩和される効果があります。「不安」と「恐怖」は、どちらも根本は同じ感情に分類されるので、つまり不安が緩和されると恐怖が軽減したように錯覚するのです。
また画面全体の色調や構図をこだわって作っているときほど、字幕で白い文字が入ることで印象は大きく変わります。ビジュアルにこだわった多くの作品がこの被害を受けています。私の印象に残っている映画としては『ラ・ラ・ランド』や『最後のジェダイ』などがあります。
『最後のジェダイ』ではスノークがレイの頬を撫でる場面があるのですが、この部屋は赤・白・黒の3色で色調のバランスがビシッと決まっていて大変美しい造形になっています。しかし、そこに白飛びしたような日本語字幕が出るたびに雰囲気が台無しになります。字幕がなければ、このシーンは本当に色彩が整っていて美しいです。
また、全てが静止した画面の中でレイの顔よりも大きなスノークの手と指だけが自由に気持ち悪く動いており、これはスノークがこの場を支配していることを表現しているのですが、白い字幕がひっきりなしに入れ替わっていると、それに気付きにくくなります。字幕がなければ、このシーンは本当におぞましく見えます。
ぜひ英語が苦手な方でも一度観たことがある映画(特にビジュアルが高く評価されている作品)を字幕なしで再視聴してみてください。きっと新たな発見があるかもしれませんよ。
▼補足(応用):字幕を積極的に利用した作品の場合:
ここから更に応用編としてロケール対応として字幕を付け足しされる以前から、すなわちオリジナルの状態で字幕が積極的に使われている(特殊な)映画について考えていきます。というのも『フレンチ・ディスパッチ』はまさにこのパターンに該当するからです。
●デザイン性を優先した英語字幕
本作は短いストーリーのオムニバス形式になっており、それぞれのパートの冒頭に予告編でも確認できる扉絵が表示されます。よく映画で見慣れた字幕ではなくて、画面の中央に、特定のフォントで、雑誌の扉絵のように配置されているのが分かります。(厳密にはこれと表示される文字が異なるのですが、フォントや配置などの意匠は同じです)
この他にも本作では基本的に演者は英語を話すのですが、時折フランス語を話す瞬間があります。そんな時にはいつも画面上にかなりクセの強い配置で英語字幕が出てきます。これらも雑誌のようなデザインになるように、考え抜かれた位置とタイミングで英語字幕が出ます。本作は英語とフランス語を縦横無尽に行ったり来たりするのも魅力になっているのですが、いかにも海外の文化芸術系の雑誌らしいファッショナブルな配置を目で追って読むのが楽しかったりします。
しかし一方で日本語字幕は、基本的には普通の映画のように下部に帯のように表示され続けるだけです。また文字数ルールの都合で、英語字幕と全く同じタイミングで全く同じ情報を表示することは不可能です。
●情報量がわざと多すぎる字幕
英語にアレルギーをお持ちの方には申し訳ないですが、本作は日本語字幕を読みながらではフルに楽しめる映画ではない、と言うべきかもしれません。そのくらい情報量が多すぎます。日本語字幕を一所懸命読み終わる頃には画面が次の場面へ切り替わっていることが多いと感じました。
字幕が出ている時でも画面上ではひっきりなしに色んな物が動いていたり、画面全体を通してシンメトリーに配置されたこまごまとしたモノを観察するのが楽しかったりと、文字情報よりそれらの非バーバル情報の方が物語や世界観を味わう上で重要だったりもします。
ちょうど『エヴァンゲリオン』や『シン・ゴジラ』で庵野秀明監督がとても読みきれない長さの字幕を出したり、俳優が話している言葉が完全には理解できなくてもいいからドンドン進めていくのに似ています。最初から読ませる気がない分量です。
更には、映画の中で本の背表紙だけ映したり、学生運動の暴動シーンなど日本語字幕が表示されている以上に英語の文字が並んでいるシーンも多く、雑誌をパラパラめくる感覚で文字を見せていると考えられます。こうなってくると全ての文章をきちんと読むというよりは、単語をパッと見て脳の意識のどこかでなんとなく処理していくことの繰り返しになります。これは英語にアレルギーがある方にはかなり敷居の高いものになるでしょう。
一度、翻訳上の慣例ルールを破って、全ての情報を余すことなく日本語字幕で表示したバージョンを作ってみても面白いかもしれないですね。あるいはネットフリックスのような独自のチームとルールで翻訳作業をしてそうなメディアでなら実現できそうな気もしますが、どうなのでしょうか。少し期待してみたいと思います。
▼後日譚:
実は、この文章をほとんど書き上げたタイミングで米国アマゾンで購入済みだったブルーレイが到着しました。当初は映画館で観るつもりがなかったので注文したのですが、後から映画館で4K上映されると知って先に観に行った形になります。
このように本作は4Kマスターで、環境がある劇場では4K上映までされているし、ストリーミングでは4K解像度らしいのにUHD盤が発売されないのは少し納得できませんが、リリースされるとしても数年先になると思うので、まずは手を打つことにしました。途中で切り上げやすい形式にもなっていますし、これから折を見て視聴していこうと思います。
▼あとがき:
今回の記事では言いたいことを伝えるために補足が多くなってしまったので、わざとクレメンツ女史を意識して重厚な構造の文章にしてみました。読者の皆様、お気づきになられたでしょうか。笑。
クレメンツ女史のほろ苦い恋と、初体験を描いた青春映画としてはゲスすぎる性的描写については別記事に書いたので、よろしけれなそちらもご覧ください。なお本稿と同じく日本語字幕では微妙に伝わらない部分の解説にもなっています。
本作については、まだまだ語り足りないので、追加で記事を書いていく予定です。気になった方はフォローやスキなどをしていただけると嬉しいです。
= = =
●脚注
この記事の画像で特に明記してないものは、全てフレンチ・ディスパッチの公式予告編(日本語字幕なし)から引用しました。
本項で解説した看守の動きに合わせて字幕が出る場面は予告編にはありませんでした。つまりウェス・アンダーソン監督としても劇場で初めて観せたかった要素だったのでしょう。ぜひ劇場でご確認くださいませ。
了。