【ゴジラ-1.0】あらすじを三幕構成で読み解く
一幕(約30分)
一場:状況説明(逃げ帰ってきた敷島)
1945年8月。敷島は特攻から逃げて大戸島に着陸する。そこで恐竜のような怪物(呉爾羅)に襲われて、ここでも逃げてしまう。戦後は東京に帰るも、実家と両親は空襲で失われていた。
二場:目的の設定(敷島が幸福になること)
1946年。同じく両親を亡くした典子と、彼女が拾った赤ん坊・明子との奇妙な共同生活が始まる。敷島は東京湾近海の残留機雷の処理で稼ぎ、家を建て直すまでになったが、まだ戦争で逃げたことが気にかかり典子と明子を家族として認められないでいた。果たして、敷島は戦争のPTSDを克服して幸せに向けて動き出せるのか?
同じ頃、ビキニ環礁のクロスロード作戦の原爆実験で大戸島の怪物はゴジラに変化し、太平洋上のアメリカ海軍を順次撃沈しつつ日本に近づいていた。
二幕(約75分)
三場:一番低い障害(海ゴジラ)
1947年。小笠原諸島近海で敷島の小型ボートはゴジラと遭遇する。日本政府に極秘命令された通りに回収した機雷でゴジラの足止め戦闘を実施する。間一髪で重巡洋艦高雄に救われるが、高雄はゴジラが放った青白い光で完膚なきまでに爆発する。
四場:二番目に低い障害(銀座ゴジラ)
東京湾からゴジラが上陸して、銀座を襲撃する。敷島は典子を助けに駆けつけるが、ゴジラがまたしても青白い熱線を放って国会議事堂を中心に東京が吹き飛ばされる。そして典子は敷島を救って命を落とす。まるで原爆のようなキノコ雲と放射性物質の下降物の黒い雨に打たれながら敷島は怒り狂う。ゴジラは海に帰って行った。
五場:状況の再整備(民間作戦始動)
日本政府が壊滅的な被害を受けたので、ゴジラを海に沈める海神作戦を民間主体で進める。敷島は予備作戦として誘導用戦闘機の使用を立案し、整備士として橘の捜索に邁進する。
六場:一番高い障害(橘の説得〜離陸)
橘が敷島を訪れる。敷島は橘を鬼の意志で説得して、橘に司令部に隠して戦闘機・震電に特攻用の爆弾を装備させる。敷島は明子を澄子に託す。ここに来て愛する者を守るために死への恐怖を克服した敷島は、震電で離陸して鎌倉から上陸したゴジラを相模湾に誘導する。
三幕(約20分)
七場:真のクライマックス(ワダツミ作戦)
海神作戦を開始する。ゴジラの沈没と浮上を成功させるが、ゴジラは死ななかった。敷島はゴジラの口に震電を突っ込ませてゴジラの頭を吹き飛ばす。震電には脱出装置が付いていたので敷島は生還する。実は敷島に特攻よりも生きることを選ぶよう説得したのは、他ならぬ橘だった。頭部を失ったゴジラは全身が崩れて海の藻屑となる。
八場:すべての結末
駆逐艦・雪風に拾ってもらい横須賀に帰港した敷島は、典子の生存を知って病院に駆けつける。敷島の戦争が終わった。
…しかし同じ頃、海中に沈みゆくゴジラ細胞が再生を始めていた。
▼解説:
普通の観客が飽きずに120分の映画を観られるフォーマットに綺麗に乗っています。まずこれに準じていることが、性別や人種や文化を超えて広く受け入れられるためには重要です。
二幕のクライマックス(六場)が敷島の死への覚悟を示す場面(橘への説得と、震電の離陸)というのが、ゴジラ映画なのにフォーカスが人間に当たっているという点で異色であり、逆に一般的な映画としては王道だと言えます。それが、良くも悪くもゴジラ映画に慣れてない海外の観客や評論家から、本作が絶賛される要因として大きいでしょう。
三幕(八場)では、典子の首の黒い痣が不吉の予兆として示されて本作の結末をコントラバーシャルにしています。これからの幸せを信じている敷島と、ゴジラの毒に犯された典子。山崎貴監督が白組VFX解説副音声で語ったところによると、あれは当初は続編に使う予定で撮影したショットだったが、銀座で核爆発が起きたシーンの出来上がりを見て、流石にこれでは典子が生き残るわけないと思ったから(脚本に無かったのに)本編に含めたそうです。
これは山崎監督が作品のVFXに寄り添って物語の方向性を180度方向転換したと言える事例であり、まさにアカデミー賞視覚効果賞での《その作品にVFXが貢献していること》という要件に(偶然にも)近づいていったと言えるでしょう。
(了)
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