『哀れなるものたち』は児童ポルノか?
本作から無意識的に感じる禁忌について考察する。
いつもの記事より少し過激な内容なので、苦手な方はブラウザバックを推奨する。
#R18 相当です。警告はしたからね。
▼ベラは母親?それとも胎児?
私が個人的に強く、常々感じている違和感として、本作(特に映画版)における紹介文の【胎児の脳を移植されて蘇生した女性】という表現がある。私は人格は脳に宿るものである(心臓ではない)という認識なので、むしろ本作の主人公は【女性の体に移植された胎児】と表現するのが正しいと思う。
もともと母親=Aと胎児=Bだとすれば、この映画でエマ・ストーンが演じる人物はBさんと言うべきである。(ただし飛び降りシーンだけはAさん)
つまり正確には蘇生じゃなくて、転生と言うべきなのだ。だからベラ・バクスターは身投げした女性ヴィクトリア・ブレシントンとは異なる名前を持つ。彼女は母じゃなくて娘である。もちろんベラはヴィクトリアの記憶を持たない。
ゴッドウィン・バクスター博士はただ取り出せば救えた胎児をわざわざ分解して別の身体に乗せ替えたマッド科学者である。しかも動機は「生まれてくる子供が最初から大人の身体を持っていたらどうなるか」という医学的な好奇心(建前上は研究)のためだけである。ゴッド博士は自殺した女とまだ生きていた胎児を無許可で使って人体実験をしたのだ。
「胎児は既に死んでいた」あるいは「博士は胎児を救うために移植手術をした」と誤解している読者もいるかもしれないので、映画内でのゴッド博士の台詞を引用しておこう。
この台詞にはゴッド博士の異常な科学的関心が隠しきれず表れている。父親としての自覚や感情が湧いたのはもっと後になってからである。
さて、ベラ・バクスターが内面的には幼児であったと認めると、ある懸念が浮上する。
この映画では【生まれて間もない幼児がセックスする場面】があることになるのだ!
▼ある映画プロデューサー同士の会話:
私が敬愛しているYouTubeチャンネル『シネマサロン映画業界ヒットの裏側』でもこの点について議論していた。
こちらは特に90年代から00年代にかけて、いわゆる働き盛りの年齢にあたり、大活躍された2名の映画プロデューサー(酒匂暢彦氏と竹内伸治氏)が公開中の映画について感想を話す人気コンテンツである。
よくある映画語り系ユーチューバーと異なり映画産業での実績がある方々なので発言が含蓄に富んでいて、お二人とも冷静なので興行に不振する作品を「爆死だ」とバズりを狙って罵るようなことは絶対にしないし、かつ配給会社からの案件じゃないので誠実な感想(ときには厳しい発言も)を述べるという、非常に稀有な魅力を持つチャンネルである。
該当部分の対話を書き起こしさせていただく。13分05秒くらいから。
以上、書き起こし終わり。
酒匂氏の言及は本投稿の主題に直接関わるので後述するとして、先に余談として竹内氏の言及の中で少し気になった細い点について考察したい。
ベラの歩き方が精神年齢とは完全に一致しないという点は、私も大体同じ意見である。ただし映画の後半でベラはかなり優雅に歩いていたので、当初の不器用さはどちらかというと身近に学習材料になる人が少なかったのが原因だと思われる。外界に出て、様々な人間を見ることでベラ自身の歩行運動が洗練されたということだろう。長い距離を歩くことによって体が自然に一番効率的な歩行を獲得したのもあるだろうし。現実世界のファッションショーに出演するモデルだって歩き方のレッスンを受けるものである。…とはいえ、フランケンシュタインの怪物のようなクリーチャーとしての属性を、歩き方で演技表現していたという竹内氏の考察は非常に面白い。
次にベラが初期段階で閉じ込められていた点について。竹内氏はゴッド博士が《文化麻痺》を危惧しての思い遣りからだろうと優しい説を挙げているが、私はもっと単純にゴッド博士が研究観察の精度を上げるためにベラへの外的刺激を排除していたという冷徹な説を取りたい。これについては、竹内氏も述べられている通り「映画の見方は自由」なので、あくまで解釈違いの一つとしてどちらも受容したい。
このように目利きな竹内氏の鋭い考察を聴けるので、当該チャンネルはお勧めである。まるでチャンネルの回し者みたいになってしまった。(笑)
さて、本題に戻ろう。
▼駆け落ちした時点でベラは《成人》だったのか?
酒匂氏が言及したベラの精神年齢の低さについて考察する。
竹内氏は、ゴッド博士がベラは《もう表の世界を見ても良い=成人年齢=18歳または20歳》だと見做していたのではないかと発言しているが、私の見解は少なからず異なる。
ゴッド博士はベラの駆け落ちを許可したのは、ベラを可愛く想うあまり、ベラの我が儘あるいは脅迫に負けたからである。これは劇中の台詞と演技から感じたことだ。ここでゴッド博士は明らかにショックを受けていた。
この発言から読み取れるベラの精神年齢は、せいぜい思春期に入ったティーン(女性なので11歳前後かな)くらいだと思われる。そしてゴッド博士は自分が嫌われたくないから、諦めたのだろう。
ベラは外見的には正真正銘の大人の女性だ。而してゴッド博士はそれまで子供扱いしていた彼女に対して、このときだけ彼女は大人だと都合よく解釈を変えてしまったのだ。人間の矛盾する心理をよく描いているとも言える。
あるいはゴッド博士は、もう屋敷内にある事物ではベラの知識欲に対応できないと冷静に考えた故の可能性も高い。ゴッド博士が愛情ではなく、むしろベラを研究対象として見ていた(見ようとしていた)と考えた場合に、彼女にとって必要な刺激が世界の外側にあると認識したから外出を許可した、と考えるのは彼のパーソナリティに鑑みても説得力があるように思える。(結果的にはベラが去ってから慈愛を持っていたことにゴッド博士は気づいて、むしろそこから彼の苦悩が始まるのだが)
これらのセリフから考えて、ゴッド博士がベラの精神は十分成熟していると認めていた可能性はかなり低いと思われる。彼はあくまでベラの中に自由意志の存在を認識しただけである。そして彼は感情に負けた彼自身を低く評価している。
加えて、時代背景にも着目したい。これは19世紀末のロンドンの物語である。その頃の女性の権利は弱かった(学業や就職や政治での格差)し、女性は体さえ成熟していれば誰かに嫁いで子を産むものとして認識されていた。なので先の竹内氏の発言に顧みて言うならば、ゴッド博士は「18歳以上と見做していた」という説には無理があるが、当時の社会に求められた「成人の要素は満たしていた」という部分に限れば妥当性は高まるだろう。
ただ重要なのは、いずれにしても、現代の(先進国の)感覚では《成人》とは呼べない。
▼映画『哀れなるものたち』は児童ポルノか?
さて、いよいよ核心に迫る。
精神年齢が(現代の基準での)成人に満たない人物のセックスシーンは児童ポルノに当たるのか。
私はグレーゾーンだと思う。(暴言)
私は最初に記載した通り「脳を移植したら、その人は入れ物が大人でも人格は子供だ」と思うので《生き返った女性》という表現には違和感があるし、酒匂氏が言及したペドフィリア的なグロテスクさも感じた。
だって体は成人なんですから、という法的な正当性を確保するエクスキューズが用意されているだけに一層気持ち悪いとさえ言える。
特に最初にベラが自分で性器の機能に気付く場面と、ウェダバーンが最初にベラの股間を触る場面では、子供に性行為をさせているような禁忌を感じた。駆け落ちしてからいきなり全裸で騎乗位で性行為に耽る場面は、そうしたリアリティを「熱烈ジャンプ」して計器の針が振り切れたようにも感じて平気になったが。
この映画は《そもそも脳を移植する時点で倫理観と医学的な正しさを超越している》ので、性行為だけを特に問題視する気分にならなかったという側面もある。戦場の火事場泥棒に近いというか。そもそもクレイジーで非現実的なリアリティラインの世界観で、そこだけ現実世界の感覚を適用してアレルギー症状を起こすのもナンセンスである。鳥犬など明らかに実現不可能な動物も存在していたし。ただし「ランティモス監督くるってんな」と思ったことだけは断っておく。(笑)
まあ芸術なんて何百年も昔から10代の少年少女の裸を絵画や彫刻にするなんて日常茶飯事だったので、世間一般の良識からは少しズレているものだとは思う。21世紀の映画ではそうしたタブーが世間で問題視されやすくなった側面はある気がするが。
このタブーを感じさせないための巧妙な装置として、ベラの容姿が大人という設定がよく機能している。
彼女を見た目だけで大人と認識するのは、実は映画内のほとんどの人物がやっていることでもある。ベラを誘惑して外に連れ出してセックス三昧になるウェダバーンも、パリの娼館でベラを抱く男達も、ヴィクトリアの夫であるブレシントンも、あくまでベラの外見だけで大人の女性として認識する。その行動を見る観客もまたエマ・ストーンの外見を信用して彼女は大人の女性なのだと看做すことに無意識的に受容し、だからこそ児童ポルノの属性を持つことを忘れる。
或いは、穿った見方をすれば、こう考えることもできる。配給会社は児童ポルノだとする指摘や訴訟が怖くて、これを成人女性の物語だと強く主張しているのではないか?
公式がこのように記載しているので、それを参照した第三者メディアの記事も個人のSNS投稿も、それを引用した記載が多くなる。言葉による印象操作。これは《最初から大人の肉体を与えらた幼児》の物語ではなくて、あくまで《死から生還した成人女性》の物語であるという印象を付けようと躍起になっているようにも見えはしないか?
そう考えると、先のYouTube動画での竹内氏のとても強い反発にも似たようなメカニズムが感じられる。
ここで「竹内氏は正直すぎる酒匂氏の言説をねじ伏せて視聴者への印象操作を図った」とまで言うのはさすがに陰謀論すぎて馬鹿馬鹿しいが、もしかしたら竹内氏自身が「映画内でセックスしているのは成人女性だ」と思い込みたくて(幼児がセックスするなんて許されないという本能的な危機感から)無意識的に過剰反応していた可能性はあるんじゃないか、くらいの邪推(想像・妄想・憶測)は許してほしい。
改めて、人間のタブーに近づくからこそアートは面白いと感じる。
ちなみに、私は偶然昨年12月滞在していたのでLAの映画館で観たが、セックスに奔放すぎる場面では客席では終始大きめの笑いが起きていて、欧米人から見れば設定がシュールなコントにも近いのかなと感じた。
あとは、本作にボカシを入れたら逆に卑猥さが増すなーと心配していたが、日本でもR18+で無修正で公開されて安堵した。むき出してディスプレイしてこそ、芸術は真価を発揮する。
長い文章を使って論じてきたが、掲題について私の結論は《グレーゾーンですね》という無難で退屈なものとなってしまった。月並みな言葉だが、ぜひ読者の皆様にも自身の観察眼と感性で本作を鑑賞し、それぞれの結論を出していただきたい。
(了)