【あらすじ解説】【ヴィレッジ】
映画の内容に言及しますので、鑑賞前の閲覧にはご注意ください。
▼あらすじ:
▼解説:
●劇中で使われる能について
劇中でミサキも解説してくれますが、この映画では『邯鄲』という演目が2回使われます。これがそのまま主人公ユウの運命を表現しています。幸福を手にしたと思ったら、まるで夢から覚めたように、それは一瞬で崩れ落ちて行きます…
アバンタイトルではユウの父親が放火する場面と交互に『邯鄲』が上演が映し出されて、ダイナミックな映像と音響を構成しています。そして第三幕のユウの放火の場面でも同じように『邯鄲』が鳴り響いて、映画全体の循環構造を作り出し、それが父と同じ運命から逃れられないユウの悲哀と、どんな栄華も一瞬にして崩れて無くなる人生の儚さを描いていて素晴らしいです。
特にアバンでは能を観劇して光り輝く少年の瞳だと思っていた超クローズアップが、第三幕で実は少年が観ていたのは燃えさかる屋敷だったというのはショックでしたねえ。あれは、あるいは大人になったユウが自分で燃やした屋敷を眺めているのを少年の姿を借りて表現しただけだったのかもしれませんが。とにかくショッキングかつ幻想的で、素晴らしい演出でした。
本編とは関係ありませんが、中村獅童が出演して、舞を披露するのは楽しく観覧できました。なんか得した気分にもなって、嬉しかったなあ。ただし言い訳のように「いやあ、すっかり錆びついちまったなあ」と台詞でエクスキューズやら謙遜やらを入れるのは、ちょっとあざとくて個人的にはあまり好きじゃないです。プロなら堂々としてくれ。(笑)
●不気味な縦穴について
この映画で唯一、論理的に説明できない存在として『不気味な縦穴』が登場します。映画で重要なことが起きるときには必ずこの縦穴が出てきます。アバンタイトルにも出てきますし、ユウが処理施設で最初に穴に耳を寄せた直後にミサキが現れましたし、ユウの成功人生が崩れ始めたときにも縦穴のシーンが挟まれました。トオルの死体が発見された時もこの縦穴と同じ構図のショットがありました。
これは『もののけ姫』や『すずめの戸締まり』にも共通して言えることなのですが、日本の神様は良いことも悪いことも同時にもたらす性質があります。本作にしたって、この穴がきっかけでユウは一度は人生で勝ち組になっていて、そういう所が面白いですね。
暗闇でどこまで深いのかも分からない縦穴に恐怖を感じる人は多いと思います。このシーンを見て恐怖を微塵も感じない人は居ないでしょう。自分が落ちる様子を想像して怖くなるのかもしれませんし、暗闇で向こうが見えないことで不安になるのかもしれません。なぜこんな場所に縦穴があるのかという意味不明さが怖いとも言えるでしょう。
神や祟りという類はそもそも論理的に説明できるものではなく、だからこそ神秘的な力が宿っていると言えます。この映画にける縦穴は、禍々しい何かの象徴として解釈するのが適切でしょう。
これとよく似た表現はしばしば映画で使われます。私が真っ先に思い出したのは『最後のジェダイ』でした。あちらはSWがファミリー層向けのエンタメ映画だったので具象的な解決を与える(=中に何があるのかを明確にする)必要があり中途半端になりましたが、『ヴィレッジ』では謎の縦穴を最後まで「説明されない存在」として描き切ったので、非常に良かったと思います。
●ユウの父親の事件について
正直、一度の観覧では正しく理解できませんでした。映画の中には、事実と異なることを話している人間が居そうです。
ゴミ処理施設の建設に反対していた → たぶん事実
殺害をした → たぶん事実
放火をした → たぶん事実
よく分からないのは、殺した相手と、動機です。
処理施設への反対だけで殺人放火まで行きますかねえ?
ちょっと理解が及びません。
父親が焼いた屋敷は相当立派だったので、霞門村の有力者だったのは間違いないでしょう。であれば、有力な家が失脚することで得をした人物とは誰だったのか、という推理が始まるわけです。
…そりゃあ村長(古田新太)ですよね。
そして父親が家を焼いた時に、少年のユウと母親と3人での写真を持っていました。つまり父が焼いたのはユウの家であり、ユウの家族はこの村でかなりの有力者だった可能性が高いです。
ここから逆算して村民のユウへの当たりが強かったことに鑑みると、ユウの家族は村であまり良く思われていなかった(元から恨まれていた)可能性が浮かび上がります。父が死んで家を焼かれてもなお、あの子供はそれに相応しいと村民が考えるのに十分な理由が必要です。霞門村のどの村民よりも金持ちなのに、村民全員が豊かになるゴミ処理施設の建設に反対している名家、だとしたら村民の嫉妬を集めていたのは納得感があります。
つまり、そんな村全体の負の感情を上手く利用して、ユウの父親を自殺に追い込んで、何かしらの罪を全部なすりつけて、村の権力を手に入れたのが現在の村長だったかもしれないのです。当時まだ子供だったユウがどこまで知っていたのかは分かりませんが。
だからこそ、村長の弟(中村獅童)は絶望して、家を捨てて、村から出る決心をしたのかもしれません。
そういう家同士の対立をよく知っていたから、村長の母親(木野花)はユウを冷たい目で見ていたのかもしれません。
とはいえ想像妄想憶測の範囲を出るものではなく、証拠はありませんが。
しかしそうなってくると、ユウの今回の行動もまた【追い詰められるとカッとなる性格】とか【遺伝で決まる】とか【一族の宿命は変えられない】といった、鬱屈とした理由にも帰結してしまうので、なんとも後味の悪い映画ですね。
●トオルの殺害について
トオルに一方的に暴行を受けていたユウを見かねて、ミサキが後ろから裁縫バサミでトオルの首筋を刺したのが一発で致命傷になりました。
その夜にユウとミサキは車で死体を運び、処理施設のゴミの中に埋めました。このため、ミサキが殺人と死体遺棄、ユウは死体遺棄という罪状になると思われます。
途中でヤクザ(杉本哲太)がユウを「お前も犯罪者だからな」と脅す場面がありましたし、あんな大男を本当に2人だけで運んで車の清掃まで出来たのか?と私は少し疑問に思いました。
しかし、どうやらヤクザは絡んでないようです。まあ村長もトオルには手を焼いていたし、そもそも殺人の線で捜査をしてないなら、多少雑な手口でもバレないこともあるのかしら。(笑)
この辺りは、サスペンス物でありがちな「そんなことできるわけないやろ」の設定の甘さですね。日本映画はこういう身体能力のリアリティに拘らない傾向があると思います。ドラマでも『大病院占拠』とかね。(笑)
●ミサキのスーツケースについて
映画の冒頭でミサキが帰ってくるのですが、そのショットではスーツケースが強調されます。このスーツケースをポストクレジットで弟ケイイチ(作間龍斗)が使っています。
ここから考えられることは2点:
1)ミサキは警察に捕まった。
2)ケイイチは村を出る決心をした。
トオル殺害時の情状を酌量しても、後ろからハサミで刺したのは殺人の意図があったとまでは断定できないかもしれませんが、過失致死になるのは避けられないでしょうし、その後にユウと2人で結託して死体を隠蔽しているので有罪判決は避けられないでしょう。もしかしたら精神疾患の方向で刑務所ではなく病院に収容されるかもしれませんが。
ケイイチが村を出るのは言うまでもありませんね。昼なのに、あんなに賑わっていた村の土産屋の駐車場には自動車が一台も止まっていませんでした。村はもう観光地としては終わってしまったようです。ゴミ処理施設も運営を継続しているのか不透明ですし、そこでの雇用が無くなれば実家の飲食店も商売あがったりです。シンプルに仕事がなくなったという面もあるでしょうし、それ以上にケイイチはこの村で「人殺しの弟」として生活することは難しくなったのでしょう。
実は本作では『邯鄲』の他にもう一つ使用される演目があり、それが『羽衣』です。
こちらは昔話として有名なのでご存知の方も多いでしょう。地上に天女が降りてきて、村人が一度は羽衣を奪って天女を拘束するも、情に絆されて羽衣を返したら天女も帰ってしまった、という話です。
もうお分かりだと思いますが、ミサキのスーツケースはこの羽衣として機能しています。降りてきた天女がミサキで、帰ってしまう天女がケイイチに入れ替わっているのが、この映画のアレンジ要素で興味深いところですね。
こうなってくると心配になるのはミサキの父親です。娘が収監されて、息子が家を出て。悪い考えを起こさなければ良いのですが…。そもそも母親はなぜ居ないんでしたっけ?なんか全ての災いの元凶がミサキだった可能性さえありますね。しかし改めて見ると、観光で賑わう村のテレビ撮影で笑っていたミサキが怖いです。
●正しい行いをする障がい者について
本編で明言こそされませんが、ケイイチはアスペルガー症候群のようです。コミュニケーションが苦手で、嘘をつくのが嫌い(出来ない)というのは、まさにそれです。精神疾患で挫折した姉ミサキと共に、とても現代的なキャラ設定だと思います。
一方で、昔から映画にしろ小説にしろ能の演目にしろ、障碍者(=異形のもの)が物語のキーパーソンになる作品は多くありました。私がパッと思いつくだけでも『レインマン』『フォレスト・ガンプ』『CUBE』『ロードオブザリング』『もののけ姫』『ミッドサマー』と枚挙にいとまがありません。本作もそうした定型句に乗ったものだと言えるでしょう。
●村のビジュアルについて
これは映画ドットコムに書いてある解説から引用しますが、
このように「美しい集落」とはっきり記載しています。実際にしばしばドローン空撮で見せられる全体像では緑の深い野山の麓に伝統的な民家や立派な屋敷が並び、実に風光明媚な集落であると言えます。
解説ではさらに「村の伝統…薪能」と書かれており、劇中では能面を覆って行列するというユニークで大規模な奇祭も登場します。中村獅童クラスの凄腕の踊り手も居ます。こりゃあ、凄いです。
この時点で、この霞門村が寂れるのはおかしな話なんですよね。これだけの観光資源があって活かせてない時点で、この村の行政は相当無能だと言って良いでしょう。(笑)
本当に何も無い田舎というのは、もっと寂れてて、救いようがなくて、悲壮感が滲み出ているものです。霞門村はあんな茅葺屋根の建物が無数に残っている時点でものすごく恵まれていますし、リアル思考になれば国や行政が黙っていません。文化財として保護するか、観光資源として利用するか、その両方になる筈です。戦後間もない昭和25年に文化財保護法が制定されてから実に70年以上、美しい日本を護ろうと奮闘してきた日本政府と教育機関と一部企業の努力を舐めちゃいかんですよ。
まあ、恋愛映画で「モテないキャラ」をスーパー美男美女が演じるのと近いかもしれませんけどね。(笑)
ただし映画の脚本では、霞門村は工場見学でひとやま当てて、そのまま観光地として大成功するので、ある程度は村そのものにポテンシャルも必要でした。ここはバランスを取るのが少し難しいポイントだったとは思います。
●年間100万人について
映画の中のテレビ番組でキャスターが喋っていたと記憶していますが、年間100万人は正直盛りすぎだと思いました。(笑)
実際に世界文化遺産に登録されている岐阜県の白川郷が年間180万人(*コロナ前の数字)なので、100万は理論的に不可能な数字ではないですが、さすがにゴミ処理施設だけが目玉では無理でしょう。
『ヴィレッジ』に登場する霞門村は架空のものですが、伝統的な茅葺き屋根が並んでいたのと、伝統芸能として能が有名であったり、村人全員が能面を覆るという特徴的な祭りがあるということなので、うまくアピールすれば人気が出る可能性はあると思います。
なお実際のロケ地(京都府美山町)では、令和元年の記事で90万人と紹介されていました。
ここからも、重要文化財として国から指定されることの方がはるかに重要だと思います。村長が何度も豪語していたように「ゴミ処理施設のお陰」だけで人気が出るというのは、やはり納得できませんね。(笑)処理施設が建設される前から観光資源として人気がないとおかしな話ですし、処理施設でスキャンダルが起きたくらいで人気は落ちないでしょう。
●河村光庸プロデューサーについて
最近の日本映画では重要人物なので言及しないわけにはいかないでしょう。
普通に家族愛の延長で地元愛、地元愛の延長で愛国心を持っている私から見ると、正直、私は河村氏の個人的な思想にはあまり共感できなさそうに思えます。(※あくまで映画の良し悪しとは別の話ですが)
河村氏が残した仕事で特に有名なのは、令和元年の『新聞記者』や令和3年の『パンケーキを毒見する』のプロデュースになると思いますが、こうした自民党政権への批判を謳う作品で名を上げたので、日本のエンタメ業界に多いリベラル派の知識人から崇拝される傾向が強くありました。
そして更に、河村氏本人が昨年(令和4年6月)に逝去されてしまったので、その神格化がいよいよ確定化したかなと感じられます。少なくとも河村氏が今後に何らかの方針変更や政治的転向などで現在の名声が崩れるリスクは無くなりました。彼の支援者から見れば安心してサポートできるようになったことになります。あまり比べるのは良くない話ですが、やはり歴史には死ぬことで地位が確立した偉人はたくさん存在してきたのは事実なので、そういうスキームに載せられる可能性は高まったと言えます。
一方で、実は河村氏の仕事には令和元年『宮本から君へ』や令和3年『空白』など、あまり政治色のない作品もあり、どちらかというと理想主義に基づく政治的な意志や使命というよりは「単純に世間の話題になりやすい話題に飛びつくのが上手い」「もう良い年齢だから失敗しても怖くない」だけで、政治的に攻めた映画を担当していた可能性もあるのかなと思われます。実際に、超話題作になった『新聞記者』の以前にはあまり有名作品がありませんでしたので、実はリベラル左翼の人達に祭り上げられた部分も大きかったのかなあと思われます。
今回の『ヴィレッジ』も特定の政党を批判する意図こそ読み取れない映画でしたが、しかし深読みしていくと先に述べた通りで、明らかに文化財として有能な村を「何も無い場所」として扱っていたり、風光明媚な土地に巨大なゴミ処理施設を平気で建設していたりと、70年来の国の文化制作が上手く機能していないことを揶揄している、とも解釈できる内容でした。また村長一家をはじめ地域行政も腐りきった描写でした。
こうして考えると、本作は単純なサスペンスではなく、河村氏のプロデュース作品に多い「社会的弱者(であると自覚している者)から見た世界」を描いた映画ではありましたね。
まあ、そういう意見や立場もあるよねー。くらいに思って私は観ました。
了。